岡本能茂
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 延宝元年(1673年) |
死没 | 宝暦7年9月28日(1757年11月9日) |
別名 | 伝八郎、内蔵助、玄蕃、寛躰[1] |
戒名 | 乾空院森羅峰○(山へんに榮)居士 |
墓所 | 芳朝寺 |
氏族 | 岡本氏 |
父母 | 父:岡本義住 母:大田原政継娘 |
子 | 公能 |
略歴[編集]
江戸にて岡本義住の子として生まれるが、その頃、住んでいた上野広小路の屋敷は、度々火災の延焼の被害を受けており、7歳の時に父も亡くなったため、母と共に母の実家である下野国那須郡森田の地に戻り、祖父である大田原政継、政継の死後は、森田大田原氏の庇護を受けて暮らす。
脚注[編集]
- ^ 芳朝寺の墓石の銘に「岡本寛躰能茂墓」とあり。
参考資料[編集]
- 岡本氏系譜(下野史談 第八巻掲載)