北畠親成 ウィキペディアから無料の百科事典 凡例北畠親成時代 戦国時代生誕 永禄3年(1560年)死没 天正4年11月25日(1576年12月15日)戒名 正楽院玄祐紫雲大居士官位 式部少輔氏族 村上源氏中院家流、北畠家父母 父:北畠具教兄弟 北畠具房、長野具藤、北畠親成女(織田信雄室:雪姫)、女(不破直光室)徳松丸、亀松丸テンプレートを表示 北畠 親成(きたばたけ ちかなり)は、戦国時代の武将。 生涯[編集] 永禄3年(1560年)、伊勢北畠氏第8代当主・北畠具教の子として誕生。 北畠家が尾張国の織田信長の侵攻に屈伏し、信長の次男・茶筅丸(織田信雄)を養子に迎えることになった際、強硬に反対したと伝わる。このため、反織田勢力のひとりと見なされた。 天正4年(1576年)11月25日に父・具教が信長・信雄らの命令によって三瀬の変で暗殺された際、兄・長野具藤と共に田丸城において土方雄久・津川義冬らに殺害された。 なお、親成に関しては具教の実子ではなく、土岐氏からの養子とする説もあり、その史料が乏しいために詳しい事績は不明である。