佐藤敬夫

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佐藤 敬夫
さとう たかお
生年月日 (1935-06-04) 1935年6月4日
出生地 日本の旗 日本 秋田県協和町
(現・大仙市
没年月日 (2020-11-09) 2020年11月9日(85歳没)
死没地 日本の旗 日本 秋田県秋田市
出身校 成蹊大学政治経済学部
前職 日本青年会議所会頭
所属政党新自由クラブ→)
自由民主党→)
新党みらい→)
新進党→)
国民の声→)
民政党→)
民主党→)
保守新党→)
自由民主党
称号 従四位

選挙区旧秋田1区→)
秋田1区→)
比例東北ブロック
当選回数 5回
在任期間 1986年 - 1995年
1996年 - 2003年10月10日
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佐藤 敬夫(さとう たかお、1935年(昭和10年)6月4日 - 2020年(令和2年)11月9日)は、日本の政治家、元衆議院議員(5期)。従四位一般社団法人日本経営士会元会長。

来歴・人物[編集]

秋田県出身。成蹊高等学校成蹊大学政治経済学部卒業。

1977年第11回参議院議員通常選挙新自由クラブ公認で全国区から立候補したが落選。

1986年に、衆議院選挙秋田1区から自由民主党公認で立候補し初当選(当選同期に鳩山由紀夫斉藤斗志二三原朝彦村井仁逢沢一郎武村正義園田博之中山成彬谷津義男新井将敬石破茂笹川堯村上誠一郎井出正一など)。1994年に自由民主党を離党して新党みらいの結党に参加、同年の12月に新進党に合流した。1998年民主党結党に参加。国民運動本部長、国会対策委員長、秋田県連代表を歴任した。

中選挙区時代は長く自由民主党の二田孝治とライバル関係にあったが、小選挙区制に移行した2000年の総選挙では二田に敗れ、比例東北で復活当選を果たした。新自由クラブ、自由民主党、新党みらい新進党国民の声民政党、民主党と政党を渡り歩いたが、2002年保守新党結成に加わる(以上の経緯から「政界渡り鳥」とも言われた)。しかし、翌年の衆院選で保守新党はわずか4議席しか獲得できず惨敗し佐藤自身も民主党新人の寺田学に敗れ落選。総選挙後保守新党は自民党に吸収される形で消滅した。

2005年のいわゆる郵政解散に伴う第44回衆院選に自民党から比例区東北ブロックの名簿掲載順位最下位で立候補したが、落選。この立候補は佐藤の秋田市内の後援会に二田を支援させるためであったと言われている。

2009年に若手経営者を支援するためのシンクタンクとして「佐藤敬夫総合研究所」を立ち上げる。

2020年11月9日15時56分、多臓器不全のため、秋田市の病院で死去[1]。85歳没。死没日をもって従四位に叙される[2]

主な役職[編集]

運輸政務次官・元民主党国会対策委員長・元保守新党国会対策委員長

略歴[編集]

  • 1975年 - 日本青年会議所会頭に就任
  • 1977年7月 - 第11回参院選全国区に新自由クラブから立候補(51位、次点で落選)。
  • 1980年6月 - 第36回衆院選、旧秋田1区に無所属で立候補(落選)。
  • 1983年12月 - 第37回衆院選、自民党公認で立候補(落選)。
  • 1986年7月 - 第38回衆院選、自民党公認で立候補、初当選。
  • 1994年4月15日 - 自由民主党離党。18日結党の新党みらいを経て、12月新進党結党に参加。
  • 1995年4月 - 秋田県知事選立候補(落選)。
  • 1996年10月 - 第41回衆院選、新進党公認で立候補、当選し国政復帰。
  • 1997年12月27日 - 新進党解党。国民の声、民政党を経て、4月民主党入党。
  • 2000年6月 - 第42回衆院選、民主党公認で立候補、比例区復活当選。
  • 2002年12月22日 - 民主党県連代表辞任、離党届提出(除籍処分)。25日保守新党結党。
  • 2003年10月 - 第43回衆院選、保守新党公認・自公推薦で立候補、落選。
  • 2005年9月 - 第44回衆院選、自由民主党公認で立候補、落選。
  • 2009年7月 - 佐藤敬夫総合研究所を立ち上げる
  • 2020年11月 - 死去。85歳没。

その他[編集]

  • 日中国会議員書画展へ書画を提供している。[3]

関連項目[編集]

脚注[編集]

外部リンク[編集]

議会
先代
井上喜一
日本の旗 衆議院科学技術委員長
1996年 - 1997年
次代
小池百合子
党職
先代
結成
保守新党国会対策委員長
初代:2002年 - 2003年
次代
自由民主党へ合流
先代
熊谷弘
民主党国会対策委員長
第6代:2002年
次代
野田佳彦
先代
前川忠夫
民主党選挙対策委員長
第3代:2000年 - 2001年
次代
松本龍
先代
結成
民政党国会対策委員長
初代:1998年
次代
民主党へ合流