UNW

UNW(ユー・エヌ・ダブリュー)は、かつて存在した日本プロレス団体

歴史[編集]

1995年1月、PWCを退団してリングネームをセッド・ジニアスに改名した渡辺幸正が「日本において失われた、クラシカルレスリングの復興」を旗印に設立。7月19日大田区体育館で旗揚げ戦を開催する。

ジニアス以外の選手は全て他のインディー団体所属選手およびフリーランスの選手で構成され、所属選手はジニアスのみである。またデビュー前にルー・テーズとのトラブルに懲りたためか、インディー団体としては珍しく契約には厳しくしており、参戦する選手にはきちんと契約書と領収書を発行したそうである。ジニアスがバラを口に咥えてワインとグラスをトレーに載せて入場したことが受けて、その後も目立つ入場を行った。試合の方は真面目にクラシカルレスリングを貫き、1997年にジニアス、ヘンリー・ロビンソンマーク・フレミングによる巴戦「アイアンマンコンテスト」を行い、巴戦だけで全7試合行った。

2001年ハーリー・レイスとの試合が発表されるも、レイスが同時期にプロレスリング・ノアの王座「GHC」の管理委員長に就任したため、ダブルブッキングとなり試合は中止となる。

2002年大仁田厚との対戦が予定されていたが、大仁田が一方的に契約を破棄するトラブルが生じたため代役のタイガー・ジェット・シンとシングルマッチを行い、書籍「流血の魔術 最強の演技」の出版直後のミスター高橋を乱入させた。その後、大仁田に1000万円の損害賠償を求める民事訴訟を起こしたものの、大仁田がジニアスとの対戦を受けることと2003年中に引退することで和解。2003年に両者がタッグマッチを行うが、大仁田が1度も絡まないまま試合が終了し、試合終了後に納得できないジニアスが大仁田に詰め寄ると、大仁田の公設秘書を務める中牧昭二らがジニアスに暴行を働き、これによってジニアスは負傷してプロレスが出来なくなったとして、損害賠償請求訴訟を東京地裁に起こした。その後メールによって大仁田から脅迫を受けたとして告訴の意向を表明すると、大仁田も逆告訴の姿勢を見せて泥仕合の様相となった。地裁での一審・東京高裁での控訴審最高裁での上告審とすべてジニアスが勝訴して大仁田への公設第一秘書への使用者責任も認定された。また大仁田は引退しなかった。

現在は活動停止中であるが、基本的に所属選手はジニアス1人のみであり、参戦する選手にギャラさえ払えば興行が成り立つため、ジニアス次第でいつでも活動再開出来る体勢にはなっている。