黒柳守綱

黒柳 守綱
生誕 (1908-06-20) 1908年6月20日
出身地 日本の旗 日本東京府
死没 (1983-04-30) 1983年4月30日(74歳没)
学歴 東京音楽学校
ジャンル クラシック音楽
職業 ヴァイオリン奏者
担当楽器 ヴァイオリン
NHK交響楽団

黒柳 守綱(くろやなぎ もりつな、1908年6月20日 - 1983年4月30日)は、日本ヴァイオリン奏者。

妻は黒柳朝、息子に黒柳紀明、娘に黒柳徹子黒柳眞理、兄は松竹蒲田撮影所の初代所長の田口桜村、ジャーナリストカメラマン田口修治

来歴・人物[編集]

医者でカトリック本所教会の長老を務めていた田口潔矩(東京府本所区相生町5-21 小児科医)の四男として生まれたが、8歳の時に父親が亡くなり、兄の田口修治とともに12歳で三越呉服店で働き始める[1][2]。1920年(大正9年)に三越少年音楽隊へ入隊する。同楽隊は吹奏楽団であったが、宮内省より東儀哲三郎の指導を仰ぎ、管弦楽も演奏するようになりヴァイオリンを学ぶ[3]。1922年に三越少年音楽隊は解散した。

官立の東京音楽学校関係者(上野派)に対して、在野派(非上野)のハタノ・オーケストラを経て、山田耕筰の交響楽運動により日本交響楽協会へ進む。同協会の山田耕筰派、近衛秀麿派の分裂時には山田派に付いたとされる。1932年頃、赤坂溜池のダンスホール「フロリダ」の昼のステージに出演、折からブームとなっていたタンゴを演奏した[4]

守綱は母方(妹と二人姉妹、妹みよは吉村家へ)の黒柳家の養子となり、黒柳姓となる(時期不明)。

1937年1月、新交響楽団(NHK交響楽団の前身)のコンサートマスターに就任する[5][6]。1942年より寺田豊次、田中秀雄、橘常定とともに東京弦楽四重奏団としても活動し、毎日新聞優秀演奏家賞を受賞する。

妻の黒柳朝(旧姓・門山)とは、彼女が東洋音楽学校(現・東京音楽大学声楽科の学生時代にベートーヴェンの『第九交響曲』の公演を共にしたことで知り合い、それから間もなく当時住んでいた住居の1階にあった喫茶店に連れ込み、夜遅くまで話し込んだ末に「家に帰れないだろ?」と自分の住居に連れ込み、そのまま結婚に至ったと、娘の徹子、妻の朝が語っている[7]。三男二女(徹子、明兒、紀明、眞理、貴之)をもうけるが、長男は夭折している[8]

1942年には齋藤秀雄らとともに満州国へ派遣され、満州国建国10周年を祝して日本から派遣された演奏家と「新京音楽団」の楽団員で組織された「満州国建国十周年慶祝交響楽団」(山田耕筰指揮)による慶祝楽曲演奏会に第1ヴァイオリンで参加している[9]

東京放送管弦楽団に属していたが、1944年に召集されて満州に出征し、敗戦後にソ連に抑留される(シベリア抑留)。シベリアで抑留中である旨が新聞紙上で報じられるも、シベリアに留め置かれ、同じく抑留されていた合唱指揮者の北川剛チェリスト井上頼豊らとともに「沿海州楽劇団」としてハバロフスク地方沿海部の日本軍捕虜収容所の巡回・慰問にあたる[10][11]。1949年末に帰還し、東京交響楽団のコンサートマスターに就任する[6][8]

上記のように、新交響楽団、東京交響楽団といった、当時の日本における主要オーケストラのコンサートマスターを歴任している。また、レコーディングスタジオの演奏家としても力を発揮し、『ゴジラ』シリーズ第1作となる1954年公開の映画『ゴジラ』では作曲家伊福部昭の要望に応じて録音に参加しテーマ音楽を演奏している[12][13]。東京弦楽四重奏団(1942年結成)を率いていた頃、チェロを齋藤秀雄が担当したこともあり、斎藤の弟子で当時高校生だった小澤征爾によると、斎藤がオーケストラを指揮した際は黒柳がコンサートマスターを務めていたという[14]

1983年4月30日死去。74歳没。

演じた俳優・声優[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『NHK交響楽団50年史』(昭和52年日本放送協会発行)が出典とクレジット。
  2. ^ 役名は岩崎要。
  3. ^ エンドロールでは名前は登場するが、作中では名前は登場しておらず「トットちゃんのパパ」となっている。

出典[編集]

  1. ^ 黒柳徹子系図近現代・系図ワールド
  2. ^ 『日本映画の玉(ギョク)』 反共プロパガンダ映画を再見する木全公彦、映画の国
  3. ^ 大森盛太郎『日本の洋楽1』(新門出版社)p. 91の表17より
  4. ^ 内田晃一『日本のジャズ史戦前戦後』スイング・ジャーナル社p.113
  5. ^ NHK交響楽団・歴代コンサートマスター(〜伊藤亮太郎氏まで)[注 1]”. チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ. 2017年10月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年10月7日閲覧。
  6. ^ a b 隈元信一 (2016年8月13日). “「スルメが私の戦争責任」 黒柳徹子さんの苦い記憶”. 朝日新聞デジタル. オリジナルの2017年3月10日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170310013955/http://www.asahi.com/articles/ASJ8C2Q2MJ8CUBNB006.html 2017年8月4日閲覧。 
  7. ^ ミュージック・ポートレイト』2014年5月15日放送分
  8. ^ a b チョッちゃん・アンティーク・コレクション room1 家族滝川市役所、2004年5月6日
  9. ^ 喜多由浩 (2013年9月16日). “【満州文化物語】(4)3つの国歌 作曲者にも「戦争の陰」”. 産経ニュース (産経デジタル): p. 1. http://www.sankei.com/life/news/130916/lif1309160020-n1.html 2017年10月28日閲覧。 
  10. ^ 黒柳徹子 (2015年8月9日). “八月十五日、私は 俳優 黒柳徹子さん 〜子どもを巻き込む戦争〜”. MIRAIMAGINE(ミライマジン). 日本放送協会. 2017年10月27日閲覧。
  11. ^ 森谷理紗、2006、「文化の生成と伝承 日本における「ロシア民謡」のケーススタディ (PDF) 」 、『口承文藝研究』(29)、日本口承文芸学会 p. 45
  12. ^ “黒柳徹子 父が「ゴジラ」のテーマ弾く”. デイリースポーツ online. (2014年6月26日). https://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2014/06/26/0007090194.shtml 2017年10月28日閲覧。 
  13. ^ 東京文化会館音楽資料室の2014年7月8日のツイート2017年10月4日閲覧。
  14. ^ 『徹子の部屋』2016年2月2日放送

関連項目[編集]