鷹巣南雄

 鷹巣 南雄 
Namio TAKASU
基本情報
名前 鷹巣 南雄
生年月日 (1943-01-24) 1943年1月24日(81歳)
身長 173 cm (5 ft 8 in)
体重 79 kg (174 lb)
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県我孫子市
経歴
成績
優勝回数 日本ツアー:3回
日本シニアツアー:1回
初優勝 産報クラシック(1973年
賞金ランク最高位 日本男子:8位(1980年[1]
2009年2月25日現在
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鷹巣 南雄(たかす なみお、1943年1月24日 - )は、千葉県我孫子市出身のプロゴルファー

レギュラー/シニア両ツアー選手会長を務めたほか、ゴルファーの傍らで東京タワーディベロップメント副社長も務めた。

略歴[編集]

青木功とは我孫子中学校の同級生で、金井清一新井規矩雄とは旧知の間柄である。特に青木とは、互いに青木(あおき)・南(なみ)と呼び合う仲であり、金井・海老原清治らと共に青木ファミリーの一員である。青木の「フック病」を克服するために行ったフックボールからストレート系に変えさせる荒療治の貢献者でもあり、鹿野山カントリークラブで行った40日間の合宿内容は凄まじく、青木の両手首を縛って固定したまま、鷹巣がおにぎりを食べさせながら打ち込みを続けた[2][3][4]。鷹巣の献身的な40日間のコーチで青木の球筋はがらりと変わったが、鷹巣は嬉しかった半面、失敗したとも思った。元々パターが上手い青木の球が真っすぐ飛び出したため、鷹巣は後に「もう勝てないと思ったよ。今だから冗談で言えるけど、教えるんじゃなかった」と振り返っている[5]

中学2年次の1956年の夏、陸上部の長距離ランナーとして活躍していた頃、部の先輩に誘われて我孫子ゴルフ倶楽部キャディアルバイトを始める。アルバイトを介してゴルフと出会い、後に深く付き合うことになる青木との出会いも、この時のアルバイトが縁になっている。林由郎に師事し、1958年4月1日に我孫子GCへ研修生として入社。1962年にプロテストで合格すると所属プロとなり、当時は読売ジャイアンツが毎年の納会を我孫子GCで行っていたため、王貞治と知り合う。当時の巨人軍の選手達との親交も始まったほか、後に鷹巣の紹介で王と青木との深い親交も生まれる事となる[6]1966年に鹿野山CCへ移籍し[7]、後に総支配人も務めた。

キャリアの割りに通算5勝は少なすぎるが、「パットがもう少し、うまかったら倍以上勝っているよ」と自らいうほどで、ショット・コントロールには定評があった[8]1973年の産報クラシックでグラハム・マーシュオーストラリア)を抑えて初制覇[7]1974年にはくずは国際トーナメント尾崎将司を抑えて4年ぶりの日本人制覇、1982年には横島由一を抑えて同大会2勝目を挙げる[9]

1979年1984年にはパールカントリークラブインターナショナル→パールカントリークラブオープンアメリカ)を制し、1979年は第1回で樋口久子松井功を抑えて[10]初代覇者となる[11]。1984年は2日目から首位に立ち、12アンダー204で石井裕士高橋五月を抑えて2度目の優勝を飾り、優勝賞金5800ドルを獲得[12]

1984年に出口栄太郎と共にワールドカップ日本代表に選出され、団体でホセ・マリア・カニサレス&ホセ・リベロスペインの旗 スペイン)、ゴードン・ブランド・ジュニア&サム・トーランススコットランドの旗 スコットランド)、陳志忠&謝敏男(中華民国)、ハワード・クラーク&マーク・ジェームスイングランドの旗 イングランド)、フィリップ・パーキン&イアン・ウーズナムウェールズの旗 ウェールズ)、李明夏&崔上鎬(大韓民国の旗 韓国)、デリオ・ロヴァート&シルヴァーノ・ロカテッリ(イタリアの旗 イタリア)、イーモン・ダーシー&ローナン・ラファティアイルランドの旗 アイルランド)に次ぐ9位に入った。

1977年に一度だけシード落ちの経験はあるが、それ以外は安定した結果を残してきた[8]。シード落ち時期にレギュラーツアー選手会長を務めたが、後に横田真一もシード落ち時期に選手会長を務める事になる。1989年には日本プロゴルフ選手会会長に就任し[7]1993年にシニア入りすると、その後の2002年からはシニアツアー初代選手会長も歴任。会長時代はPGAの組織と選手たちの窓口として仕事に神経を使う時間が多くなって、徹底してゲームに集中出来ない悩みを抱えていたが、「プロゴルフ界の発展のためには、誰かがやらなければならんことだから」と割り切っていた[8]

1987年は最も予選落ちが少なく、夏まではペプシ宇部8位、NST新潟6位といまひとつであったが、秋になって調子を取り戻し、ジュンクラシック2位、東海クラシック8位と来て、これからという時期に、アコムダブルス出場中に虫垂炎にかかって手術[8]。このため終盤のビッグトーナメントを全て欠場を余儀なくされてしまったが、夏には乞われて関東オープンをキャンセルして“夫人の郷里”ということで出場権を得た北海道オープンに出場。小島昭彦とのプレーオフの末に2位に入り、ゴルフ界に新たな話題を提供もした[8]

2002年にはキャッスルヒルオープンを59歳4ヶ月で優勝し、国内シニアツアー最年長優勝記録を樹立。最終日の松井利樹松本紀彦とのプレーオフは5ホールに及ぶ大熱戦となったが、4ホール目で松本が脱落した後の5ホール目にバーディーを決めて松井を下し、レギュラー時代の1985年富山県オープンで優勝して以来実に17年ぶりの優勝を手にした。シニア入り以来何度も優勝争いに加わりながら、ものにできなかっただけに、嬉しい優勝になった[13]2007年くまもと中央カントリークラブで開催された「日本シニアオープン」で青木が65歳2カ月で大会を制し、青木はこれを6歳近くも塗り替えたことになる。さらに、最終日は「65」を叩き出し、国内シニアツアーの公式戦でエージシュートを達成した。

2008年4月1日付で杉並学院ゴルフ部監督に就任[14]。生一本で曲がったことが大嫌いな性格で、子供達にも「コラ」「バカ」と怒鳴ったりもするため、最初は「とても監督の器ではない」と就任に踏み切れなかった[5]。就任から3ヶ月が経過し、生徒と接しているうちに「子供って純粋でいいなあ」と思うようになり、監督を引き受けて性格も変わった。「バカ」という言葉を飲み込んで言わず、大きな声を出してしまった時は男子であればを組んで触れ合うなど必ずフォローした[5]。生徒側は最初「どこのおじさんが来たの?」と思っていたほか、30代の父兄も鷹巣のプロ時代を知っている人物はほとんどいなかったが、試合に行くと役員が鷹巣に挨拶に来たため、生徒間で「うちの監督すごいよ」と評判になり、父兄も分かってくるようになった[5]

現在は鹿野山CCでヘッドプロ・理事を務めている[7]

主な優勝[編集]

レギュラー
  • 1973年 - 産報クラシック
  • 1974年 - くずは国際
  • 1981年 - よみうりオープン
  • 1982年 - くずは国際
  • 1985年 - 富山県オープン
シニア
  • 2002年 - キャッスルヒルオープン
海外
  • 1979年 - パールカントリークラブインターナショナル
  • 1984年 - パールカントリークラブオープン

関連項目[編集]

(我孫子一門)
(師弟関係)
(杉並学院ゴルフ部監督)
  • 吉岡徹治
(マザー牧場)
  • 前田福三郎
  • 前田伸

脚注[編集]

  1. ^ 1980年 国内男子ゴルフ賞金ランキング-大会優勝者【PRiVATE LiFE】データベース
  2. ^ 「石川遼の学校」で監督に 杉並学院・鷹巣南雄(上)2 : 日本経済新聞 2010/11/16付
  3. ^ 青木功 - 変わらぬ原点「ベタ足打法」 : 東洋経済 2010/2/2付
  4. ^ 「スクェアグリップは、人それぞれ違う」青木功が取り組んだ世紀のグリップ改造 : みんなのゴルフダイジェスト 2016/8/29付
  5. ^ a b c d 「石川遼の学校」で監督に 杉並学院・鷹巣南雄(上)1 : 日本経済新聞 2010/11/16付
  6. ^ 「世界の王さんあっての私」: 東洋経済 2009/8/4付
  7. ^ a b c d 歴代プロ | 鹿野山ゴルフ倶楽部 公式サイト
  8. ^ a b c d e 鷹巣 南雄選手 プロフィール - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site of JAPAN GOLF TOUR
  9. ^ ゴルフ場開場 History - 公式ホームページ | くずはゴルフリンクス
  10. ^ ハワイパールオープン
  11. ^ ハワイパールオープン
  12. ^ ハワイパールオープン
  13. ^ PGA シニア選手紹介
  14. ^ ゴルフの話をしようVol.1 鷹巣南雄プロ 杉並学院ゴルフ部監督 <style-GOLD 2008年8月7日付>

外部リンク[編集]