高林恒夫

高林 恒夫
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都千代田区神田
生年月日 (1938-01-12) 1938年1月12日[1]
没年月日 (2009-09-05) 2009年9月5日(71歳没)[2]
身長
体重
173 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1961年
初出場 1961年
最終出場 1965年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

高林 恒夫 (たかばやし つねお、1938年1月12日 - 2009年9月5日)は、昭和中期(1960年代前半)のプロ野球選手外野手)。

経歴[編集]

東京都神田出身。錦華小学校を経て、立教中学校(現・立教池袋中学校)で野球を始める。立教高校(現・立教新座高校)では1年生からレギュラーとなり、中堅手として1955年の春の甲子園に出場する。1回戦で坂崎一彦山本八郎らのいた浪華商に完封負け[3]。浪華商はこの大会に優勝する。同年夏は都予選準々決勝で早実高に敗退した。

1956年立教大学に入学するが、2年生までベンチ入りすらできなかった。2年生時の1957年11月3日立教大学が東京六大学野球の秋季リーグで優勝を決めた日の夜に、高林は前科3犯の窃盗犯を捕獲して、神田警察署から表彰状と賞金500円を受け取る。これを知った監督の辻猛に抜擢され、3年生から外野手のレギュラーとなる[4]。4年生次の1959年には第3回アジア野球選手権大会日本代表に選出され、日本の優勝に貢献。同年秋季リーグでは打率.432を打ち首位打者を獲得する。リーグ通算50試合出場、181打数50安打、打率.309、0本塁打、15打点。ベストナイン3回。高林がレギュラーになってから、東京六大学野球リーグでは1958年春・秋、1959年秋の3回優勝し、全日本大学野球選手権大会でも1958年に優勝を果たした。大学同期には森滝義巳稲川誠種茂雅之浜中祥和小西秀朗が揃っていた。

1960年熊谷組に入社。同期の左腕エース橋本時男を擁し、同年の都市対抗野球大会に四番左翼手として出場、4試合で16打数10安打、打率.625と大活躍する。特に決勝では松下電器を相手に、2回に北畑利雄から先制本塁打、延長10回には松浦三千男から決勝点に結びつく安打を放つなど、5打数5安打と大暴れして優勝に貢献[5]、同大会の橋戸賞を獲得した。同年9月には全日本社会人野球選抜チームの一員としてハワイに遠征している[5]

アマ球界での実績を引っさげ、1961年読売ジャイアンツ契約金1000万円、年俸250万円で入団。実家が自営業(古書店)であった高林は、もらうなら小切手より現金がよいと希望し、契約金のうち300万円は現金で受け取ったという[6]。高林の入団に伴って、巨人監督の川上哲治はベテランの与那嶺要自由契約にして中日ドラゴンズに放出。高林は与那嶺の後を受け背番号7を付けた。打者の癖を読んで守備位置を変えるなど頭脳的な外野守備を買われ、高林は開幕から左翼手として起用された。同年は新人ながら主に二番打者として86試合に先発出場、打率.219ながら、守備では無失策を記録する。しかし翌1962年には打率.152と不調に陥り、宮本敏雄池沢義行に押されて出場試合数が半減する。

シーズン終了後、北川芳男との交換トレードで宮本敏雄と共に国鉄スワローズに移籍した。かつて、入団時に与那嶺を追い出した形となっていた高林はトレードの話を聞いて「今度は俺の番か」と思ったという。国鉄でも1年目の1963年から左翼手の定位置を獲得。同年は大学後輩の丸山完二と一、二番コンビを組み、初の規定打席(打率.222、リーグ24位)にも達した。その後もレギュラー左翼手として起用されるが、1965年限りで現役を引退した。

現役引退後は、神田神保町にある家業の古書店「東陽堂書店」の経営に当たり、神田古書店街の幹事長も務めた[7]2009年9月5日劇症肝炎のため死去[2]。71歳没。

息子の高林孝行も父と同じ野球選手となった後、引退後は家業を継いでいる。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1961 巨人 119 370 320 34 70 11 2 1 88 22 3 3 22 1 23 0 4 43 8 .219 .280 .275 .555
1962 80 117 105 8 16 0 0 2 22 4 0 1 1 0 11 0 0 20 2 .152 .233 .210 .442
1963 国鉄
サンケイ
138 520 451 54 100 14 6 3 135 26 8 8 11 1 54 0 3 41 9 .222 .309 .299 .608
1964 112 337 295 32 61 9 2 4 86 18 16 5 8 0 31 2 3 47 6 .207 .289 .292 .580
1965 132 457 402 33 94 16 2 1 117 23 10 11 6 2 46 0 1 54 10 .234 .314 .291 .605
通算:5年 581 1801 1573 161 341 50 12 11 448 93 37 28 48 4 165 2 11 205 35 .217 .296 .285 .580
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 国鉄(国鉄スワローズ)は、1965年途中にサンケイ(サンケイスワローズ)に球団名を変更

記録[編集]

背番号[編集]

  • 7 (1961年 - 1962年)
  • 15 (1963年 - 1965年)

脚注[編集]

  1. ^ 高林恒夫 1963
  2. ^ a b 元プロ野球選手、高林恒夫氏が死去”. SANSPO.COM. 産経デジタル (2009年9月6日). 2009年9月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年11月28日閲覧。
  3. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  4. ^ 近藤唯之 1979, pp. 171–172
  5. ^ a b 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  6. ^ 近藤唯之 1979, p. 174
  7. ^ 近藤唯之 1979, p. 175

参考文献[編集]

  • 近藤唯之「高林恒夫(巨人・国鉄) 与那嶺を巨人から追い出した男」『背番号の消えた人生 栄光の名選手はいま……』サンケイ新聞社、1979年、170-178頁。 NCID BA7238431X 近藤唯之『背番号の消えた人生 栄光の名選手はいま……』新潮社〈新潮文庫〉、1985年。ISBN 4-10-132203-1 
  • 高林恒夫「ぼくの球歴 美技と本塁打の印象 高林恒夫」『週刊ベースボール』第18巻第21号、ベースボール・マガジン社、1963年、7頁。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]