雷切

雷切(らいきり)は、または雷神を斬ったと伝えられる日本刀。複数ある。

立花道雪(戸次鑑連)の雷切[編集]

はじめこの刀は、柄に鳥の飾りがあったことから「千鳥」と呼ばれた。 『大友興廃記』によると、戸次鑑連(後の立花道雪)は若い頃(35歳)に半身不随になったとされる。時期に関してはおよそ天文17年(1548年)6月5日[注釈 1]、鑑連が故郷の藤北で炎天下の日、大木の下で涼んで昼寝をしていたが、その時に急な夕立で雷が落ちかかった。枕元に立てかけていた刀千鳥でその雷の中にいた(雷神)を切ったとされる。実際に切ったかどうかははっきりしていないが、これより以降、鑑連(道雪)の左足は不具になるとも、勇力に勝っていたので、常の者・達者な人より優れて、馬を乗って敵陣に突撃する事もある[1][注釈 2]。人々は道雪が雷もしくは雷神を斬ったなどと噂したという。道雪は千鳥の名を改め雷切丸とし、常に傍らに置いたといわれている。

この雷切は道雪の死後、彼の養子・立花宗茂の所有物として、刀に「立花飛驒守所持」と刻まれ、金が象嵌される[注釈 3]

立花家史料館にはもとは刀身が長く、太刀であったものを磨りあげて、脇差に直してある雷切丸が所蔵されており、実見してみると[注釈 4]、切っ先から小鎬にかけて、それに峰の部分に変色した痕跡が見られる。[2]

なお、元の名は「千鳥」だが、徳大寺家に伝わっていたとされる同名の刀とは無関係である。

竹俣兼光[編集]

長船兼光作の刀。雷神を2度も切った刀とされ「雷切」とも呼ばれた。竹俣慶綱上杉謙信(当時は長尾景虎)に献上した後には、謙信がこの刀で一両筒の火縄銃の銃身を切断したことから「一両筒」とも呼ばれた。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『柳川史話』によると、天文6年(1537年)6月5日、27歳の時と記述される。
  2. ^ 伝承の輿を乗ることは老年の時から始まる。
  3. ^ 立花家史料館蔵、脇差・雷切丸の紹介による。
  4. ^ 立花家史料館蔵、脇差・雷切丸の紹介によると、宝暦9年(1759年)に「相州物の由」と鑑定されており、相模国の刀工が作った可能性が高い。大磨上無銘(短くするために、作刀者の名があった部分まで切り落とされた。)

出典[編集]

  1. ^ 『井楼纂聞 梅岳公遺事』・『戸次軍談』・『九州諸将軍記』・『浅川聞書』・『筑前国続風土記』
  2. ^ 本郷和人『戦国武将の明暗』新潮社、2015年、109-111頁。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]