雨宮家次

 
雨宮 家次
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 享禄4年(1531年
死没 天正3年5月21日1575年6月29日
別名 与十郎、十兵衛
戒名 恵閣院殿法観日厳居士
主君 武田信玄義信北条氏政、武田信玄、勝頼
氏族 雨宮氏
父母 父:清野清秀養父:雨宮重家
兄弟 満秀満成正利家次
昌茂、青沼主殿の妻、猶良
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雨宮 家次(あめのみや いえつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田氏の家臣。

略歴

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武田信玄の長男、武田義信附の家臣。永禄8年(1565年)、義信事件にて義信が謀反の疑いで切腹すると、武田家を追放され後北条家に仕えた。後北条家では功績をたびたび重ね、7度感状を受ける。のち、高坂昌信を介して再び武田家に仕える。天正3年(1575年5月21日高坂昌澄の組として長篠の戦いに参加し、徳川家康の家臣、小栗忠政に討たれた。そのとき、家次は刀を小栗に託した。この刀は、のち小栗から家次の子孫に渡ることになる。寛政重修諸家譜小栗忠政」に記載がある。

その他

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参考文献

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関連項目

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