長藪城

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長藪城
和歌山県
城郭構造 一城別郭式山城
築城主 牲川(贄川)義春
築城年 文明年間(14691487年
主な改修者 畠山氏
廃城年 天正15年(1587年)?
遺構 竪堀、堀切[1]
位置 北緯34度21分27.8秒 東経135度36分59.8秒 / 北緯34.357722度 東経135.616611度 / 34.357722; 135.616611座標: 北緯34度21分27.8秒 東経135度36分59.8秒 / 北緯34.357722度 東経135.616611度 / 34.357722; 135.616611
地図
長藪城の位置(和歌山県内)
長藪城
長藪城
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長藪城(ながやぶじょう)は、和歌山県橋本市城山台[注釈 1]にあった日本の城[1]。城山台住宅地北側の「城山」に位置する[1]

概要[編集]

長藪城は、標高350m、比高170mの尾根上にあり、東西約600mに及ぶ[1]。3つの地点から成っており、それぞれ東の城、西の城、出城と呼ばれている[1]

紀伊続風土記』によると、楠木正成に従い功を立てた牲川頼俊の子・義春が、文明年中(14691487年)に紀伊国伊都郡に入り、長藪城を築いたという[3]。義春は紀伊守護畠山政長に仕え、谷内郷(橋本川流域地区[4])13か村、一万石を支配し、義春の子・義信は谷内郷と河内国の2か村を合わせ、15か村を領した[5]

永禄元年(1558年)、義信の子・義則三好長慶家臣・松永久秀に攻められて城を明け渡すが[注釈 2]、永禄3年(1560年)、義則の子・義次が松永氏から城を奪還した[3]

畠山氏の没落後は織田信長に従ったが、天正15年(1587年)、義次の子・義清豊臣秀吉に逆らって討死し、長藪城は落城したとされる[3]。また、秀吉でなく織田信長により攻め落とされたとも伝えられる[3]

また、確実な文献としては「祐維記抄」の大永4年(1524年)11月条に、畠山義堯方を攻める畠山稙長(政長の孫)が「長藪城衆」を引き連れたとの記述がある[1]永正10年(1513年)8月には、稙長の父・尚順が長藪城近くにある小峰寺の砦に籠る畠山義英(義堯の父)との戦いのため軍事行動を起こしており(「三箇家文書」)、この時尚順方は長藪城を利用していたとみられる[1]

これらのことから、長藪城は地元の武士・牲川(贄川)氏の城を基に、紀伊守護・畠山氏が一城別郭式の大規模な城郭へと改修したものと推測される[1]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 元は橋本市細川と慶賀野にまたがる地点[2]
  2. ^ 永禄元年(1558年)のこの戦いは三好長慶の河内介入や松永久秀の大和侵入と連動したものと考えられるが、それらが永禄2年(1559年)に始まったことからするとその時期には疑問が残る[2]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 岩倉哲夫 著「長薮城」、和歌山城郭調査研究会 編『戦国和歌山の群雄と城館』戎光祥出版〈図説 日本の城郭シリーズ12〉、2019年、20–21頁。ISBN 978-4-86403-311-4 
  2. ^ a b 鈴木眞哉 著「長藪城の戦い〔第一次〕」、戦国合戦史研究会 編『戦国合戦大事典 第四巻 大阪 奈良 和歌山 三重』新人物往来社、1989年、293–294頁。ISBN 4-404-01595-X 
  3. ^ a b c d 仁井田ほか 1910, pp. 74, 76.
  4. ^ 仁井田ほか 1910, p. 55.
  5. ^ 仁井田ほか 1910, p. 74.

参考文献[編集]