長塩正家
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長4年(1599年) |
死没 | 万治元年11月4日(1658年11月28日) |
別名 | 又左衛門[1] |
戒名 | 塩月院空嶺全長[2] |
墓所 | 東京都福生市熊川の福生院[3] |
主君 | 徳川家康→秀忠 |
氏族 | 長塩氏 |
父母 | 長塩正舎[2](長塩作兵衛[1]) |
妻 | 大屋氏娘[1] |
子 | 正次[1] |
長塩 正家(ながしお まさいえ)は、江戸時代前期の武士。江戸幕府旗本。
生涯
[編集]長塩家は甲斐武田家の旧臣であった家で、正家の祖父の長塩正平(主水)が武田信玄・勝頼に仕えたのち徳川家康の家臣になったという[1]。正家は徳川家康・秀忠に仕えて大番を務め、常陸国鹿島郡にて350石を知行する[1]。寛永10年(1633年)2月7日、武蔵国多摩・男衾・榛沢・賀美郡内にて200石を加えられ、知行高は合計550石となる[1][注釈 1]。
万治元年(1658年)11月4日、60歳で没[1]。墓所は東京都福生市熊川にある福生院にある[3][注釈 2]。長塩家の墓塔である五輪塔は、福生市の史跡に指定されている[3]。
系譜
[編集]旗本長塩家の祖先について、『寛永諸家系図伝』では尾張国丹羽氏の支族とし、足利義満に仕えた長塩家次(兵衛五郎)との関係も示唆されている[1]。しかし『寛政重修諸家譜』編纂時の呈譜では藤姓足利氏の流れを汲むと主張している[1]。
長塩家の知行地支配
[編集]熊川の「鍋ヶ谷戸」一帯は、正家以来、明治元年(1868年)まで長塩家の知行地であった[3][注釈 3]。地域には、領主の長塩家が水不足に悩む村人たちために掘って与えたという「伝 地頭井戸」(福生市登録文化財)などの史跡が残る[9]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k 『寛政重修諸家譜』巻第六百七十七「長塩」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.599、『新訂寛政重修諸家譜 11』p.183。
- ^ a b 『福生市史 上巻』p.441
- ^ a b c d “長塩正家(ながしおまさいえ) -鍋ヶ谷戸を知行した旗本長塩氏-”. 福生市郷土資料室 (2017年2月10日). 2022年8月16日閲覧。
- ^ 『福生市史 上巻』p.445
- ^ 『福生市史 上巻』p.358
- ^ 『福生市史 上巻』p.357
- ^ 『福生市史 上巻』p.368
- ^ 『福生市史 上巻』pp.357-358
- ^ “ふっさんぽ『熊川分水巡りルート』のご案内”. 福生市観光案内所. 2022年8月16日閲覧。
参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第六百七十七「長塩」
- 『寛政重修諸家譜 第四輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082713/308
- 『新訂寛政重修諸家譜 11』(続群書類従完成会、1965年)
- 福生市史編さん委員会 編『福生市史 上巻』(福生市、1993年)
- 福生市立図書館サイトより閲覧可