鍋島直孝

鍋島 直孝(なべしま なおたか、文化6年(1809年)5月 - 万延元年(1860年)4月)は、江戸時代後期の旗本江戸北町奉行通称は初め帯刀(たてわき)、内匠(たくみ)、内匠頭(たくみのかみ)。室はクマ(黒田直方の娘で本多正意養女)。子に、直影(餅ノ木家第11代)、今(鍋島直正養女、鍋島茂生室)。

生涯[編集]

第9代佐賀藩主・鍋島斉直の五男として生まれる。弟に鍋島直永(第8代鹿島藩主)、鍋島直正(第10代佐賀藩主)、鍋島直賢(第10代鹿島藩主)らがいる。鍋島直正(実弟の直正とは別人)の養子となり、餅ノ木鍋島家(鹿島鍋島家分家)の10代当主となった。石高5000石。

杏葉館と号し、朝顔の栽培家として名を成した。嘉永7年、「朝顔三十六花撰」に序文を書いている。52歳(満50歳)で没し、江戸二本榎の広岳院に葬られた。

江戸幕府役職履歴[編集]

関連作品[編集]

直孝が北町奉行の要職に就いていた頃、彼の相役を務めていた南町奉行[1]遠山金四郎(遠山左衛門尉景元)を主人公に据えた連続テレビ時代劇。劇中では、直孝本人の登場こそなかったものの、遠山左衛門尉が南町奉行所に於けるお白洲での吟味の際、直孝の名前が登場する事があった(これは本作の後継作品である『金さんVS女ねずみ』でも同様)。

脚注[編集]

  1. ^ 劇中では南町奉行の名称はあまり用いられず、専ら「お町お奉行」の名称が用いられていた。