鈴木清寿

鈴木 清寿(すずき きよひさ、1877年明治10年〉9月28日[1] - 1937年昭和12年〉10月18日[1])は、大正から昭和時代戦前の政治家神奈川県平塚市長。

経歴[編集]

平塚で質屋を営む鈴木春蔵の長男として生まれる[1]。平塚小学校、東京大成学館を経て、東京法律専門学校を卒業後[注 1]に帰郷した[1]日露戦争開戦の年に中郡役所書記となり[1]、ついで1918年(大正7年)から同14年まで神奈川県庁地方課勤務となる[2]

1925年(大正14年)9月、平塚町助役、1927年(昭和2年)3月に同町長代理を経て、1929年(昭和4年)6月、22代町長に就任した[1]。1932年(昭和7年)4月に平塚市が市制施行すると市長代理を経て、同年8月に初代市長に就任し[1]、翌年病気により退任した[2]

町長および市長在任の間、関東大震災の復興、須馬町の合併、平塚警察署の設置、倒壊した小学校の再建、特設高等小学校の設置などに尽力した[1]。また、報徳思想の実践者として地元の二十四軒町に報徳社を設立した[1]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『神奈川県名鑑』185頁では明治35年日本大学法科卒業とある。

出典[編集]

参考文献[編集]