金森近供

金森 近供(かなもり ちかとも、慶安3年(1653年) - 享保16年7月7日1731年8月9日))は、江戸時代の大名金森家の分家で飛騨国高原郷3千石の金森左京家第3代当主。飛騨高山藩第4代藩主金森頼直の次男で、明暦元年(1655年)に叔父の金森重直の養子として名跡を継いだ。幼名仙千代。元服して初名直友と名乗る。左京亮。兄は第5代藩主金森頼業、弟に権之助、直清重矩。室は古河藩土井利隆の娘。子女に百助(早世)、近舒(ちかゆき)、本多忠知本多忠周養子)、駒之助(養子。金森頼旹の子)、可英(養子。金森可沢の子)。

兄の高山藩第5代藩主金森頼業が没した時、甥の第6代藩主金森頼旹がまだ2歳であった為、成人になるまで後見をしこれをよく補佐した。越中富山藩との境界争いを勝訴に導くなど内政を束ね、政治手腕に長けていた人物であったという。

次男の近舒、養子の駒之助(頼旹の六男)と先立たれ、金森可沢の次男の可英を養子として後継とした。