金大中事件

金大中事件
各種表記
ハングル 김대중 납치사건
漢字 金大中拉致事件
発音 キム・デジュン ナプチサコン
日本語読み: きんだいちゅうらちじけん
英語 Kidnapping of Kim Dae-jung
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金大中事件(きんだいちゅうじけん、キム・デジュンじけん [注釈 1])は、1973年8月8日大韓民国の民主活動家および政治家で、のちに大統領となる金大中が、韓国中央情報部 (KCIA) により日本東京都千代田区ホテルグランドパレス2212号室から拉致されて、船で連れ去られ、ソウルで軟禁状態に置かれた5日後にソウル市内の自宅前で発見された事件である。

金大中拉致事件(きんだいちゅう/キム・デジュンらちじけん)ともいう。

事件の背景[編集]

金大中

金大中は1971年大韓民国大統領選挙新民党(当時)の正式候補として立候補したが、民主共和党(当時)の候補・朴正煕(パク・チョンヒ)現役大統領(当時)にわずか97万票差で敗れた。朴は辛くも勝利したが、民主主義回復を求める金に危機感を覚えた。

大統領選直後、大型トラックが金の車に突っ込み、3人が死亡。金はと股関節に障害を負った。後に韓国政府はKCIAが行った交通事故を装った暗殺工作であったことを認めている。その際、日本の暴力団への依頼も検討していたことが国家情報院の過去事件の真相究明委員会で明らかになっているが、最終的にはKCIAによる外国での殺害を断念した[1]

翌年、朴は非常事態宣言を発布し憲法を無視して国家を戒厳令下においた(十月維新)。そのとき海外にいた金は韓国に帰れば殺されると判断し帰国を断念。日本やアメリカの実力者と会見をしたり、海外在住の同胞達に講演したりして、韓国の民主主義自由選挙を求める運動を行った。

丁度その頃、朴の側近であった李厚洛(イ・フラク)中央情報部長が平壌を訪問し、平壌の金英柱組織指導部長と会談し、逆に英中の代理として朴成哲第二副首相が同年5月29日から6月1日の間ソウルを訪問して李と会談し、7月4日には南北共同声明を発し祖国統一促進のための原則で合意した。

この歴史的会談によって李の韓国国内の評価は一気に高まり、「ポスト朴正煕」との噂さえ囁かれるようになる。そんな中、1973年(昭和48年)、首都警備司令官尹必鏞(いん・ひつよう/ユン・ピリョン)将軍が李との談話で漏らした失言(「大統領はもうお年だから、後継者を選ぶべき」)に激怒した朴正煕は、両人ならびに関係者を拘束し徹底的に調べ上げるように命じた。しかし、ここで側近から造反者が出たように見られるのは朴政権にとって痛手となるため、李厚洛は釈放された。なお、尹必鏞はこの失言を口実としてクーデターを計画しているという陰謀論が広まった末、最終的に汚職容疑で自らに近しい軍人と共に拘束・処罰された。これがいわゆる尹必鏞事件である[注釈 2]

こうして朴の機嫌を損ねた李は、何とか名誉挽回に朴の政敵である金を拉致する計画を立てるに至ったのである。

事件の経緯[編集]

1973年(昭和48年)7月、世界でも「民主主義の活動家」として高い名声を得るようになっていた金大中は、日本の自民党左派宇都宮徳馬らに招待され、講演するため東京を訪問した。当時のことを金は「私が東京に着いたとき、友人達が在日韓国朝鮮人ヤクザたちが私を狙っていると忠告してくれました。在日韓国朝鮮人のヤクザたちは大韓民国居留民団(民団)やKCIAと強い結びつきがあるのです」と後のインタビューで語っている。すぐに亡命者生活に入り、2・3日ごとにホテルを変え、日本人の偽名を使った。

1973年(昭和48年)8月8日午前11時頃、金は東京のホテルグランドパレス2212号室に、病気療養のため宿泊していた梁一東民主統一党(当時)党首に招かれ会談した。前年開業した同ホテル(東京都千代田区飯田橋1-1-1)は、九段下交差点を飯田橋方面に入ってすぐにあり、裏路地からは朝鮮総連本部に至近の場所に位置している。

午後1時19分ごろ、会談を終えた金は2212号室を出たところを6、7人に襲われ、空部屋だった2210号室に押し込まれ、クロロホルムを嗅がされて意識が朦朧となった後、4人により、エレベーターで地下に降ろされ自動車に乗せられた。パレスホテルから自動車で関西方面神戸市)のアジトに連れて行き、その後、工作船コードネームは龍金〈ヨングム〉号)で、神戸港から日本を出国したと見られる。朦朧とした意識の中「『こちらが大津、あちらが京都』という案内を聞いた」と金大中は証言している。

金大中は「船に乗るとき、足に重りをつけられた」、「海になげこまれそうになった」と後日語っている。しかし事件を察知した(当時の厚生省高官の通報によるとされる。またアメリカ合衆国連邦政府も、このことを察知していたとされる)海上保安庁ヘリコプターが拉致船を追跡し、照明弾を投下するなどして威嚇したため、日本国政府に拉致の事実が発覚したことを悟った拉致実行犯は、金大中の殺害を断念し釜山まで連行し、ソウル特別市で解放したとされている。金大中自身、日本のマスコミとのインタビューで、甲板に連れ出され、海に投下されることを覚悟したときに、追跡していた日本のヘリコプターが照明弾を投下したと証言している。

拉致から5日後、金大中はソウルの自宅近くのガソリンスタンドで解放され、自力で自宅に戻った。直後に自宅で記者会見を行った際、日本人記者団に対して解放された直後の心境を、「暗闇の中でも尚 明日の日の出を信じ 地獄の中でも尚 の存在を疑わない」と日本語でメモに記した。

KCIAと韓国系ヤクザ[編集]

事件後しばらく経ってから、警視庁は事件にKCIAが関与していたと発表。捜査員は、ホテルの現場から金東雲・駐日本国大韓民国大使館一等書記官(変名で本名は金炳賛〈キム・ピョンチャン〉)の指紋を検出し、営利誘拐容疑で出頭を求めたが、東雲は外交特権を盾に拒否。東雲はKCIAの東京での指揮官と見られていた人物で、逃走に使われた自動車は在横浜副領事のものであった。日本国政府は東雲に対しペルソナ・ノン・グラータを発動、間もなく外交特権に保護されて大韓民国に帰国した。

警視庁によると「少なくとも4つのグループ、総勢20人から26人が事件に関与した」と公表している。アメリカ合衆国の『ファーイースタン・エコノミック・レビュー』の記事によると「朴正煕と関係の深かった、韓国人ヤクザの町井久之(鄭建永〈チョン・ゴンヨン〉東声会会長)が、ホテルのフロアをほとんどすべて借り切り、KCIAに協力した」と掲載した。「ニューズウィーク」東京支局長バーナード・クライシャーは、アメリカ合衆国の本社に「町井久之はKCIAと緊密に行動を共にし事件の背後にいた。しかし日本のどの新聞もこのことを取り上げない。それは町井の組が自分達を誹謗する者を、(日本人でさえ)拷問し殺すことさえ厭わないからだ」との記事を送っている。

韓国政府が、金大中を中傷する情報を日本の新聞社に流す役割をしていた柳川次郎(梁元錫〈ヤン・ウォンソク〉山口組系柳川組組長)も関与。日韓関連の著書が多いジャーナリスト五島隆夫によると「柳川は日本の暗黒街の他の人物と同様に、児玉誉士夫(自民党の後援者・右翼黒幕)を通じて韓国政府と接触をとった」という。

また、元陸上自衛隊3佐で、陸上幕僚監部第二部別班などを経て退官後に興信所を営んでいた坪山晃三にも、拉致設定の依頼が金東雲からあったが、愛国心から坪山は拒否し、当時の内閣官房副長官後藤田正晴から、しばらく身を隠していろと忠告され、伊豆半島に潜伏していた。

事件のその後[編集]

文世光事件と朴正煕暗殺事件[編集]

この事件の責任を取って李厚洛は中央情報部長職を解任され、日本国内では反韓感情が高まった。その運動の中から総連系に唆された文世光(ムン・セカン)が朴正煕殺害を試み、陸英修(ユク・ヨンス)大統領夫人が死亡した(文世光事件)。この事件の責任をとって警護室長朴鍾圭(パク・チョンキュ)が解任された。

その後、中央情報部長に就任した金載圭(キム・ジェギュ)が、警護室長に就任して権勢を振るうようになった車智澈(チャ・ジチョル)に対する反感から、1979年10月に朴と車を酒席で射殺する朴正煕暗殺事件を引き起こして朴政権の崩壊の引き金を引くとともに、その事件を率先して調査した国軍保安司令官の全斗煥(チョン・ドゥファン)の台頭を生むきっかけとなった。

日本に対する主権侵害[編集]

同事件について、日本政府は主権侵害に対する韓国政府の謝罪と、日本捜査当局による調査を要求していたが、同年11月の金鍾泌(キム・ジョンピル)首相(当時)の訪日と1975年7月の宮澤喜一外相(同)の訪韓で政治決着を図り、韓国側の捜査打ち切りを確認したが、韓国政府はKCIA職員かどうかも認めず不起訴処分とし、国家機関の関与を全面否定していた。

後年、大統領になった金大中はこの事件を一切不問にするとの立場を明らかにし、韓国政府に対する賠償請求などに発展するおそれのある真相究明を露骨に牽制した。また、1973年11月2日に行われた田中角栄首相(当時)と金鍾泌首相(当時)との会談の内容を収めた機密文書が盧武鉉政権により公開(2006年2月5日)され、日韓両政府が両国関係に配慮した政治決着で穏便に事を済ませようとしていたことが明らかになった。『文藝春秋』2001年2月号の記事[要文献特定詳細情報]によると「田中角栄首相が、政治決着で解決を探る朴大統領側から少なくとも現金4億円を受け取っていた」と現金授受の場に同席した木村博保元新潟県議が証言している。

また娘の田中真紀子元外務大臣によると、事前に田中角栄は「殺人をしないこと」を条件に、拉致することを了承済であったという。但し角栄の当時の対応については「金大中を殺害するつもりなら爆破するぞ」と強く殺害の中止を求めたという説と、事なかれ主義的に拉致を認めたという説がある[要出典]

2006年7月26日韓国政府は韓国中央情報部 (KCIA) の組織的犯行だったとする結論を出し、国家機関が関与したことを初めて政府として認めた。2007年10月14日北海道新聞によると、「当初金氏を日本の韓国系暴力団に依頼して暗殺することがKCIA内で検討されたが、成功が困難と判断して断念したことを元KCIA職員が証言した」との記事を掲載した。なお、元朴大統領の側近はこの証言を否定している。拉致の目的は金の海外での反政府活動を抑制するためだったと別の元KCIA職員が証言し、殺害計画の事実を否定した。

同年10月24日国家情報院 (NIS) の過去事件真実究明委員会は、当時のKCIAによる組織的な犯行だったとする報告書を発表し、韓国政府として事件への関与を初めて公式に認め、柳明垣駐日大使は日本国に陳謝をした[2]

なお、これに対し日本国政府は、日本の主権侵害に対する公式謝罪と日本の捜査当局による関係者の聴取を求めたが、2021年現在まで正式な韓国政府による謝罪はない。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 現在の日本では韓国・朝鮮人の氏名は韓国・朝鮮語読みにするのが慣例になっているが、当時は日本語音読みにする慣例があった。李承晩ラインなども同じである。
  2. ^ なお、当時韓国軍内には朴政権の軍内支持派として構成されていた秘密結社「ハナフェ(ハナ会・一心会)」が存在しており、尹が事実上の後見人となっていた。この事件でハナフェの存在が発覚したが、朴正煕は軍内部の動向を把握するためハナフェを解体せず事実上黙認し、尹に近いメンバーが退役処分となるだけだった。この結果、ハナフェの創立メンバーで、実質的なリーダーであった全斗煥(後の第11・12代韓国大統領)の地位が高まることとなる。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • “(昭和史再訪)金大中事件”. 朝日新聞DIGITAL. (2013年7月1日). http://www.asahi.com/culture/articles/TKY201306290249.html 2014年4月12日閲覧。 
  • 金大中先生拉致事件の真相糾明を求める市民の会(韓国)『金大中拉致事件の真相』三一書房、1999年。ISBN 978-4380992131 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]