那珂通世

那珂なか 通世みちよ
肖像
生誕 1851年2月6日嘉永4年1月6日
日本の旗 日本陸奥国盛岡
死没 (1908-03-02) 1908年3月2日(57歳没)
日本の旗 日本東京府
国籍 日本の旗 日本
研究分野 日本史東洋学
研究機関 東京帝国大学第一高等学校東京高等師範学校
出身校 慶應義塾別科
主な業績 亜細亜研究、歴史教育
主な受賞歴 従四位勲四等1908年
子供 又世、高世、孫尚雄(又世の子)
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那珂通世

那珂 通世(なか みちよ、1851年2月6日嘉永4年1月6日) - 1908年明治41年)3月2日)は、南部藩出身の明治時代歴史学者文学博士。学問領域及び教科名としての「東洋史」創唱者とされる。

生涯[編集]

陸奥国岩手郡盛岡城下にて盛岡藩士・藤村盛徳の三男として生まれる。幼名は荘次郎。その優れた才能を買われ、14歳の時に藩校作人館の句読師であった儒官江帾通高(梧楼)から乞われ養子となった。藩主南部利恭近侍となり、養父が「那珂」と改姓したのに伴い、「那珂通世」を名乗った。戊辰戦争における敗戦を経験し、江戸の越前藩邸に預けられる。

明治維新後は英学を志し、初めは山東一郎主宰の北門社に入塾したが、まもなく福澤諭吉書生となり、1872年明治5年)に慶應義塾別科に入塾、1876年(明治9年)、26歳の時に「日本古代文字考」を『洋々社談』に発表。慶應義塾別科を卒業後、福澤の推薦で師範学校中学校巴城学舎などの教師を務め、後に千葉師範学校東京女子師範学校の校長を歴任し、女子教育に尽力した。

1890年代には華族女学校教授、高等師範学校及び第一高等学校教授に就任。1896年(明治29年)には帝国大学文科大学の嘱託講師を務めた。その間、日本朝鮮中国の歴史における実証的な研究を多く発表。1900年(明治33年)には国語調査委員を命ぜられ、高等官三等(従五位)に累進した。

1901年(明治34年)、文学博士の学位を取得。代表的な著作に、中国史を通覧する『支那通史』(1888年-1890年、未完ながら簡易かつ客観的であったことから清国でも刊行)や、辛酉革命説に基づいて日本の紀年問題を研究した「上世年紀考」(1897年『史学雑誌』発表、三品影英増補『上世年紀考』所収)等がある。また、皇紀を定めるにあたって神武天皇即位年を計算、紀元節の特定にも協力した。神武天皇即位紀元を参照

1903年(明治36年)に早稲田大学の東洋史講座、1904年(明治37年)には浄土宗大学の仏教地理講座など、その他の私立学校からも講師を嘱託された。

1905年(明治38年)の日露戦争中、戦地視察の命を受け、嘉納治五郎等とともに清国の金州旅順等へ差遣され、さらに翌1906年(明治39年)には満韓修学旅行に監督として随行し、満州韓国を訪れた。

那珂は学問領域及び教科名の「東洋史」の創唱者(外国史を西洋史と東洋史に二分することを提案)として知られ、満州語モンゴル語を独自に研究、1907年(明治40年)にはモンゴル語で書かれた元朝秘史を『成吉思汗実録』と題して邦訳刊行した。

1908年(明治41年)、心臓発作により死去[1]従四位勲四等に叙された。

同じく東洋史学者の内藤湖南(盛岡藩出身)とは親交を結び、白鳥庫吉は中学教師時代の教え子だった。栃木県日光市華厳滝で「巌頭之感」を書き残して投身自殺した藤村操は甥。

栄典[編集]

位階
勲章等

著書[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)20頁
  2. ^ 『官報』第2534号「叙任及辞令」1891年12月9日。
  3. ^ 『官報』第4421号「叙任及辞令」1898年3月31日。
  4. ^ 『官報』第5169号「叙任及辞令」1900年9月22日。
  5. ^ 『官報』第6901号「叙任及辞令」1906年7月2日。
  6. ^ a b 『官報』第7403号「叙任及辞令」1908年3月4日。
  7. ^ 『官報』第4350号「叙任及辞令」1898年1月4日。
  8. ^ 『官報』第5548号「叙任及辞令」1901年12月28日。

参考文献[編集]

公職
先代
木間瀬柔三
千葉師範学校長
千葉女子師範学校総理
千葉中学校総理

1878年 - 1879年
次代
小杉恒太郎