越後交通栃尾線

越後交通 栃尾線
概要
現況 廃止
起終点 起点:悠久山駅
終点:栃尾駅
駅数 25駅
運営
開業 1915年2月14日 (1915-02-14)
廃止 1975年4月1日 (1975-4-1)
所有者 栃尾鉄道→越後交通
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 26.5 km (16.5 mi)
軌間 762 mm (2 ft 6 in)
最小曲線半径 110.64 m (363.0 ft)
電化 直流750 V 架空電車線方式
最急勾配 16.7
路線図
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停車場・施設・接続路線(廃止当時)
ELCa exKBHFa
0.0 悠久山駅
exBHF
0.6 長倉駅
exhKRZWae
栖吉川
exBHF
1.5 土合口駅
exBHF
1.9 大学前駅
exBHF
2.3 高校前駅
exhKRZWae
福島江
exSTR+GRZq
↑1973年廃止区間
exSTR STR+l
信越本線上越線
2.8 長岡駅
exBHF STR
3.5 袋町駅
exBST STR
3.7 神田口駅 -1939
exBHF STR
3.9 東神田駅 [注釈 1]
exBHF STR
4.2 下長岡駅
exSTR+l exABZgr STRl
信越本線
exKDSTe exSTR
栃尾線車両区
exhKRZWae
栖吉川橋梁
exBHF
5.4 下新保駅
exBHF
6.6 小曽根駅
exBHF
7.5 宮下駅
exhKRZWae
成願寺川
exBHF
8.7 浦瀬駅
exBHF
10.2 加津保駅
exSTR+GRZq
長岡市見附市
exBHF
12.0 椿沢駅
exBHF
13.5 耳取駅
exBHF
15.0 名木野駅
exABZl+l exBHF+r
上見附駅 (I) -1919[注釈 2]
exSTR exWKRZ3+1o
刈谷田川 (河道変更年不明)
exSTR exKBHFe
16.0 上見附駅 (II・III) 1919-
exSTR+GRZq
↓1973年廃止区間
exBHF
18.2 明晶駅 [注釈 3]
exBHF
19.8 本明駅
exBHF
21.1 太田駅
exBHF
21.9 上北谷駅
extSTRa
見附市
extSTR+GRZq
牛ケ嶺トンネル[注釈 4] 160.87m
extSTRe
栃尾市(廃止当時、現・長岡市栃尾地域
exBHF
24.5 楡原駅
exKBHFe
26.5 栃尾駅

栃尾線(とちおせん)は、新潟県長岡市に本社を置く越後交通が運営していた、長岡市の悠久山駅から長岡駅見附市上見附駅を経由して、栃尾市(現・長岡市)の栃尾駅までを結んでいた軽便鉄道路線。

概要[編集]

長岡駅を中心に長岡市東部を結ぶ軽便線。前身の栃尾鉄道の名から、通称 栃鉄(とってつ)と呼ばれ、小さな車両は「マッチ箱」の愛称で親しまれた。

栃尾鉄道は、軽便鉄道としては全国でも例が少ない急行快速列車[1]を運行しており、大正末期のガソリンカー導入時には当時まだ珍しい女性接客係を採用[注釈 5]。また全線電化やCTC化(一部区間)、カルダン駆動の新車の導入などの近代化にも中小私鉄としていち早く着手した。さらに、付帯事業として路線バスの運行のほか、野球場ホテル遊園地等沿線の観光開発にも乗り出すなど、誘客策も積極的に実施していた。新潟県中越地方の電車・バス3社合併により越後交通となってからも、沿線住民からは引き続き「栃鉄」と呼ばれて親しまれていたが、1975年に全線が廃止され、同社の路線バスに転換された。

路線データ[編集]

  • 路線距離(営業キロ):26.5km
  • 軌間:762mm
  • 駅数(起終点駅を含む):25駅
  • 複線区間:全線単線
  • 電化区間:全線(直流750V)
『栃尾鉄道沿線図絵』(栃尾鉄道、昭和2年発行)。新潟県立図書館

歴史[編集]

栃尾鉄道
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
新潟県長岡市台町3丁目甲807の1[3]
設立 1913年大正2年)12月26日[3]
業種 鉄軌道業
事業内容 旅客鉄道事業、自動車運送業、遊園地経営[3]
代表者 社長 藤原栄作[3]
資本金 67,500,000円[3]
発行済株式総数 1,350,000株[3]
特記事項:上記データは1957年(昭和32年)8月1日現在[3]
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駅の位置(配列)は経路図あるいは駅一覧の節を参照。

駅一覧[編集]

  • 全駅新潟県に所在。
  • 所在地の市町村名・接続路線の事業者名は廃止時点のもの。
  • (   )内は、開業当時の駅名。
駅名 駅間キロ 営業キロ 接続路線 所在地 廃止日
悠久山駅 - 0.0 長岡市 1973年4月16日
長倉駅 0.6 0.6
土合口駅 0.9 1.5
大学前駅(四郎丸駅) 0.4 1.9
高校前駅 0.4 2.3
長岡駅 0.5 2.8 日本国有鉄道信越本線上越線 1975年4月1日
袋町駅 0.7 3.5
神田口駅 0.2 3.7 1939年1月1日
東神田駅(家政高校前駅[注釈 14]→中越高校前駅)[注釈 1] 0.2 3.9 1975年4月1日
下長岡駅 0.3 4.2
下新保駅 1.2 5.4
小曽根駅 1.2 6.6
宮下駅 0.9 7.5
浦瀬駅 1.2 8.7
加津保駅 1.5 10.2
椿沢駅 1.8 12.0 見附市
耳取駅 1.5 13.5
名木野駅 1.5 15.0
上見附駅 1.0 16.0
明晶駅 2.2 18.2 1973年4月16日
本明駅 1.6 19.8
太田駅(上北谷駅) 1.3 21.1
上北谷駅(上太田駅) 0.8 21.9
楡原駅 2.6 24.5 栃尾市
栃尾駅 2.0 26.5

廃線後の状況[編集]

長岡駅 - 栃尾駅沿線地域のバス路線図。

廃線後、線路は撤去されたものの、市街地などの一部を除いて大部分は廃線跡が確認できるところが多い。現在遊歩道になっていたり、跨線橋があるのはその名残といえる。以下は廃線跡の主な現況である。

  • 長岡駅東口の悠久山方には廃線跡の用地を利用して駐輪場が建てられており[22]、さらにそこから先、栖吉川を渡る地点までは、一部私有地となっている以外は遊歩道として整備されている。国道352号線に面する廃線跡には機関車の車輪を模したモニュメントが設置されている[23]
  • 新潟県道19号見附栃尾線の見附市から栃尾方面に並行する廃線跡は、刈谷田川を渡る鉄橋から上北谷駅跡までが中部北陸自然歩道[24][25]ならびに刈谷田サイクリングロード[26][27]として整備されている。さらに、2014年(平成25年)、椿沢 - 耳取間に至る3km弱の廃線跡が、並走する見附市道の自転車道として整備完了した。
    また、1973年の区間廃止まで上北谷 - 楡原間にあった牛ケ嶺隧道は、拡幅工事を経て同県道19号線のトンネルとして現在も供用中。
  • 旧耳取駅付近から国道8号線バイパスと交差するあたりまでの区間では路盤がほぼ廃線当時のまま残っている。
  • 悠久山、浦瀬、上見附、栃尾の各駅跡では駅舎が営業所社屋(浦瀬駅舎を除く)、バスターミナル、ならびにバス待合所として平成に入るまで利用されており、栃尾駅舎は今なお現役であるが[要出典]、他は2000年頃までに撤去されている。
    • 耳取駅ホームにあった待合室が耳取バス停の待合所として健在。(2019年6月現在)

なお、越後交通は2019年5月現在、同線にほぼ並行する形で下記のバス路線を運行している[28]

  • (急行)長岡駅大手口 - 見附本町 - 小貫(または楡原) - 栃尾車庫
  • (快速)長岡駅東口 - 新榎トンネル(または桑探峠) - 栃尾車庫
  • 長岡駅東口 - 浦瀬 - 名木野(または耳取) - 上見附車庫
  • 長岡駅東口 - 悠久山公園入口 - 悠久山
  • 長岡駅東口 - 地域振興局 - 悠久山 - 成願寺

車両[編集]

蒸気機関車[編集]

なお、合併前の長岡鉄道5号機・6号機を名乗るコッペル製タンク機を保有したが、軌間も製造年も異なる全く別の車両である。

客車[編集]

  • ホハ1形 - オープンデッキの木造ボギー客車。1964年(昭和39年)に自社で外板に鋼板を張る簡易鋼体化改造を受け、さらにその後外吊り式の乗降扉を設置したが、屋根はダブルルーフのままでドア窓はHゴム支持という独特なスタイルだった。
    • ホハ1・2 - 1914年(大正3年)日本車輛製の1・2等合造車が原型のため変則的な窓配置となっている[30]
    • ホハ5・6 - 1914年(大正3年)日本車輛製。新製時は2等車[30]
    • ホハ7・8 - 1916年(大正5年)大日本軌道製。新製時は3等車[30]
  • ホハ10 - 1954年(昭和29年)に元青梅鉄道の2軸客車ハ10とハ11(1894年(明治27年)製造)の車体を接合して製作されたボギー客車。当初はオープンデッキだったが、後に箱型車体に改造され車端部に外吊り式の乗降扉が設置された。
  • ホハ11 - 元西武軌道線(後の都電杉並線)の250形265であり、1928年(昭和3年)汽車会社製の木造電車。譲受後に改造されオープンデッキの客車となる(台車は気動車用とおぼしきアーチバー式の偏心台車だった)。総括制御化を前に廃車された(詳しい時期は不明)。
  • ホハ12 - 元石川鉄道(現・北陸鉄道石川線)ナ2→ロ13。 1915年(大正4年)日本車輌製、オープンデッキの木造ボギー客車で1925年(大正14年)に譲受。1945年(昭和20年)に藤相線→駿遠線に移籍、ホハオフ21→ハ21となっている。
  • ホハ13(初代) - #電車」のモハ206の記述を参照。
  • ホハ13(2代) - #電車」のモハ201-203の記述を参照。
  • ホハ17・18 - 1923年(大正12年)汽車会社製。元草軽電気鉄道ホハニ17・18で8m級の小型車。
  • ホハ20・21 - 1950年(昭和25年)自社工場製のボギー客車。深く丸い屋根が特徴。ホハ21は後に電装と車体の大改造を受けモハ211となった。その後の経緯については#電車の節の当該車両の記述を参照。
  • ホハ22 - #電車」のモハ201-203の記述を参照。
  • ホハ23 - 元江ノ島鎌倉観光(現・江ノ島電鉄)の100形115で、1957年(昭和32年)7月に譲受。当初はクハ101として使用する予定であったが、制御機器に問題があることから認可を受けられず、運転台つきのまま客車として使用された。1966年(昭和41年)7月29日クハ111となり、全線廃止まで使用された。台車は元同和鉱業小坂鉄道の客車のものが使用され、元の台車はモハ211へ転用された。なお大元は武蔵中央電気鉄道1形6(1929年(昭和4年)、日本車輌製)で、1938年(昭和13年)に江ノ電に移籍している。
  • ホハ24 - 1931年(昭和6年)小松工業所製。元はガソリンカーキ6→キハ110で、電車化されモハ204となり、その後さらに客車化された。
  • ホハ25 - #電車」のモハ201-203の記述を参照。
  • ホハ27 - #電車」のモハ206の記述を参照。
  • ホハ28・29 - #電車」のモハ101・102の記述を参照。
  • ホハ30 - 元小坂鉄道ハ10。ボギー車でデッキ部分に乗降扉を持つ。
  • ホハ50 - 元草軽電気鉄道ホハ23。当初は客車のままホハ26として使用され、総括制御用の引き通し線を設けて付随車化されサハ305となるが、後に客車に戻った。
  • ハ2・5-8 - 1963年(昭和38年)に小坂鉄道から移籍。オープンデッキのボギー車で、加津保駅や長岡車庫に留置されていたが実際に使用されることはなく、部品取りなどに活用された。ホハ23→クハ111の台車は、この中から転用された物である。

気動車[編集]

下記のほかにも存在したが、いずれもガソリンカーで、当路線用に新造されたものであった。

  • キ3 - 1929年(昭和4年)設計認可・松井車輌製作所製の片ボギー車。定員40人。その後車体両端に荷物台が設けられ、1943年(昭和18年)7月にキハ105に改番された。戦後の電化に伴い、1948年(昭和23年)3月に東急電鉄から譲受した主電動機を用いて電車モハ203に改造された。その後の経緯については#電車の節の当該車両の記述を参照。
  • キ4・5 - 1930年(昭和5年)設計認可の松井車輌製作所製。キ3の増備車で、当初から荷物台を装備。キ3と同様にキハ106・107に改番され、その後電車モハ201・202に改造された。その後の経緯については#電車の節の当該車両の記述を参照。
  • キ6 - 1931年(昭和6年)設計認可の小松工業所製。キ3-5と同様にキハ110に改番され、後に電車化されモハ204となり、さらに客車化されホハ24となった。
  • キハ7 - 1932年(昭和7年)設計認可の日本車輌東京支店製。全長10mのボギー車で当初から荷物台を装備。キ3-5と同様にキハ111に改番され、その後電車モハ205に改造された。その後の経緯については#電車の節の当該車両の記述を参照。

電気機関車[編集]

  • デキ50 - 草軽電気鉄道デキ50形を1947年(昭和22年)6月に譲受したもの。入線に当たり、草軽独特の形状だったパンタグラフをフレーム状の台座に載せた菱形パンタグラフに換装している。出力が小さく(37kW×2)、1954年(昭和29年)10月に休車、1961年(昭和36年)4月10日に廃車となった。
  • ED51 - 1949年(昭和24年)日立製作所水戸工場製の15t機(出力168kW)で、貨物列車を牽引した。車両前後両端にデッキを持つ箱形車体で、車体中央に菱形パンタグラフを1基搭載している。1967年(昭和42年)の貨物輸送廃止後は朝の通勤列車牽引機として使用されたが、乗客減から通勤列車が1969年(昭和44年)に廃止され、それに伴い除雪・保線用になった。その後部分廃止を前に1972年度(昭和47年度)に廃車となった。

電車[編集]

モハ201-206、モハ209・210は新製・改造当初は車体装架カルダン駆動方式を採用していた。東急の56kW級中古品の電動機を1両に1個(気動車改造車)あるいは2個(自社工場製車)搭載したが、モハ209を除いて1960年(昭和35年)ごろまでに通常の吊り掛け式垂直カルダン式、もしくは無動力の制御車に改造された。

  • モハ101・102 - 元草軽電気鉄道モハ100形モハ101・102で、1961年(昭和36年)の部分廃止の際に栃尾電鉄に移籍。後に客車化されホハ28・29となり、1966年(昭和41年)には妻面の貫通化と総括制御化改造を受けてサハ302・303となった。
  • モハ200 - 元草軽電気鉄道モハ100形モハ105で、上記のデキ50と同時に譲受。電化開業に向けた乗務員訓練などにも使用された。入線後に26kW×2→42kW×2→55.95kW×2と出力増強を繰り返したほか1959年(昭和34年)9月に吊り掛け式から垂直カルダン式に改造されたが、1972年(昭和47年)6月30日には電装解除されサハ306となり、全線廃止まで使用された。廃止後はヘッドライトを取りつけ[注釈 16]、電動車時代に近い外見に復元した上で観音山会館に静態保存され、車内に立ち入ることも可能でファンシーグッズショップや食堂の広告塗装が施されたりしたが、荒廃がひどくなったため2002年に解体処分されている[31]
  • モハ201-203 - 上述のとおりキハ106・107・105からの改造でそれぞれ誕生。モハ201はガソリンカー時代に荷物台の撤去と車体延長改造を受けており、残る2両も1953年(昭和28年)1月に同様の改造を施された。特にモハ202の荷物台は側面部が柵でなく板で構成されており、車体延長改造前・片ボギー時代は凸型に近いスタイルだった。また車体延長改造後のスタイルは、モハ201が前面4枚窓でモハ202・203が前面3枚窓という違いがあった。1954年(昭和29年)から1955年(昭和30年)にかけて3両全車が両ボギー化改造を受けたが、電動機が1個のままであったため出力不足が問題となり、1957年(昭和32年)から1966年(昭和41年)にかけて電装解除され客車ホハ22ホハ25ホハ13(2代)にそれぞれ改造。ホハ13は1972年(昭和47年)1月14日に廃車となり、他の2両は部分廃止時に廃車された。
  • モハ204 - 「#客車」のホハ24及び「#気動車」のキ6の記述も参照。モハ205の初期に似た切妻2枚窓の妻面を持つ。
  • モハ205 - 上述のとおりキハ111からの改造で誕生。1953年(昭和28年)に荷物台の部分まで車体を延長、1958年(昭和33年)に車体を13mに延長する改造を受け、妻面も切妻2枚窓から貫通式となった。台車や電動機の交換を繰り返して最終的には総括制御化の上4個モーターの大出力となり、付随車や制御車を牽引していた。
  • モハ206 - 元石川鉄道(現・北陸鉄道石川線)のオープンデッキ木造ボギー客車ナ3→ロ14の初代ホハ13(1915年(大正4年)、日本車輛製。1925年(大正14年)に栃尾鉄道に移籍)を1944年(昭和19年)にガソリンカー化したキハ112を、さらに1951年(昭和26年)に電車化した車両。1961年(昭和36年)に電装解除して客車に戻り、ホハ27となった。3ドアで中央扉は両開きという荷物電車のようなスタイルで、一時期運転台部分を丸妻化して流線形(国鉄キハ07形気動車に近いスタイル)に改造されたこともあった。
  • モハ207 - 元草軽電気鉄道モハ100形モハ104で、1950年(昭和25年)に栃尾電鉄に移籍してきた。1959年(昭和34年)に東洋工機で車体更新、間接制御化、垂直カルダン駆動化などの改造を受けており、この改造で妻面が切妻3枚窓から貫通式となっている。
  • モハ208 - 元草軽電気鉄道モハ100形モハ103で、1950年(昭和25年)に栃尾電鉄に移籍。1955年(昭和30年)に神鋼電気製のモーターで垂直カルダン駆動に改造され、栃尾線初の本格的カルダン駆動車となった。後に付随車化されサハ301となった。
  • モハ209 - 1952年(昭和27年)自社工場製。車両前後両端には奥行きのあるデッキ、妻面中央部には梯子がついているという、電気機関車に似た特に異彩を放つスタイルであり、妻面右側に乗務員扉が設けられていた。4個モーターで車端寄りの2軸は定格出力42kWの吊り掛け式、中央寄りの2軸は上記の通り定格出力56kWの床下装架のモーターをプロペラシャフトで台車と結んだ車体装架カルダン式と、2種類の駆動方式を採用した珍しい電車であった。ED51を上回る出力(195.2kW)を持ち、実際に電気機関車の代用として使われたこともあった。部分廃止時に廃車。
  • モハ210 - 1954年(昭和29年)自社工場製。車体にアルミ合金を使用して自重の軽減を図り、乗客誘致の目玉としてクロスシートを設けロマンスカーと名付けた[32]。浅く平べったい屋根が特徴。1970年(昭和45年)3月に制御車化されクハ112となり、部分廃止時に廃車された。
  • モハ211 - 1950年(昭和25年)自社工場製の客車ホハ21→クハ30を1956年(昭和31年)垂直カルダン方式を用いて電装した車両。電装に当たっては台枠を延長するなどの大規模な改造が施され、特徴的な丸屋根も幕板部分の幅を拡張し浅く平べったい屋根に改造している。部分廃止時に廃車された。
  • モハ212 - 1957年(昭和32年)東洋工機製。垂直カルダン方式を最初から採用した13m級の大型車。同型が3両増備された(モハ213-215)。ノーシルノーヘッダー、前面貫通式の近代的な全金属製車体を備え、客用扉の窓は高い位置に小型の物を設置した独特なスタイルだった。モハ213・214は部分廃止時に廃車、残りは全線廃止まで使用された。モハ215は全線廃止目前の1974年頃にパンタを撤去し制御車となった[注釈 17]
  • モハ216・217 - 1964〜1965年(昭和39〜40年)東洋工機製。駆動方式は吊り掛け式に変更され、車体はモハ212-215に準ずるが運転台右側に乗務員扉が設けられ、妻面右側の窓も2段から1段となった。全線廃止まで使用された。
  • クハ101-104 - 1966〜1967年(昭和41〜42年)東洋工機製。モハ212-217と同タイプの車体を持つ制御車。クハ101・102は悠久山側に、103は上見附側に配置されたが、1967年に3両が揃った際に上見附側を奇数番車、悠久山側を偶数番車とするためクハ101をクハ104に改番している。全線廃止まで使用された。
  • クハ111 - #客車」のホハ23の記述を参照。全線廃止後、見附市坂井町の旧国道8号線(現県道498号線)沿いで静態保存されていたが後に解体された。
  • サハ301-303 - 上記のモハ101・102及びモハ208の記述を参照。
  • サハ306 - 上記のモハ200の記述を参照。

貨車・荷物緩急車[編集]

  • ニフ16 - 元青梅鉄道カフ2[30]
  • ニフ17・18・22 - 1944年(昭和19年)新潟鐵工所製の半鋼製荷物緩急車。元岩瀬炭鉱の無蓋貨車ト20形を自社で改造した物。
  • ニフ19-21 - 1944年(昭和19年)新潟鐵工所製の木造荷物緩急車。元岩瀬炭鉱の無蓋貨車ト20形を自社で改造した物。
  • ニフ23 - 元草軽電気鉄道コワフ113。
  • ワ10形 - 1915〜1929年(大正4〜昭和4年)自社工場製の木造2軸有蓋貨車。
  • ト20形 - 1944年(昭和19年)新潟鐵工所製。元岩瀬炭鉱の木造ボギー無蓋貨車。一部は上記の通り有蓋の荷物車に改造された。
  • ユキ1形 - 1949年(昭和24年)、有蓋貨車ワ3の改造で製作されたロータリー車。屋根上にパンタグラフを設置し、車内のモーターでファンを回転させる電動式のロータリー車で日本では他には旭川電気軌道に存在したのみ。使用成績が芳しくなかったことから1958年(昭和33年)に廃車。
  • ユキ2形 - 1954年(昭和29年)、無蓋貨車ト12(元魚沼軽便線ケト212、栃尾鉄道には1949年(昭和24年)入線)の改造で製作された私鉄唯一のジョルダン式雪かき車。栃尾線廃止まで在籍。

車両数の推移[編集]

年度 機関車 内燃動車 電車 客車 貨車
蒸気 電気 有蓋 無蓋
1914 2 4 4 10
1915 3 6 10 13
1916 4 8 10 13
1917 4 12 8 15
1918-1920 3 14 8 15
1921 4 14 8 15
1922 4 14 14 19
1923-1924 5 14 14 19
1925 5 1 16 14 11
1926 4 16 14 13
1927 5 2 16 18 17
1928 6 2 16 18 17
1929-1930 6 5 16 18 17
1931 6 6 12 18 17
1932-1933 6 7 12 18 17
1934 6 7 12 18 15
1935 5 7 12 18 15
1936-1937 4 7 12 18 14
1946 4 6 9 18 10
1948 3 1 1 6 11 17 10
1950 1 2 0 8 16 23 17
1955 1 2 11 11 25 20
1957 0 2 12 19 15 20
1970 1 11 21 0 17
  • 鉄道院年報、鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計各年度版、高井薫平『軽便追想』ネコパブリッシング、1997年、212頁

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b c d e 『日本鉄道旅行地図帳 6号』[14]では(1955年)東神田→(1956年)家政高校前→(1970年)中越高校前の順に改称したとあるが、『私鉄の廃線跡を歩くIII』[15] では(1955年)家政高校前→(1956年)中越高校前→(1970年)東神田の順に改称したとし、また『越後交通社史』[16]の記述は『昭和30年6月 家政高校前(後の中越高校前)駅新設』である。なお最寄高校だった中越高等学校は、(1955年当時)長岡家政学園高等学校→(1956年)中越高等学校と改称→(1984年)移転と変遷している。
  2. ^ 資料によっては開業当初の上見附駅を(スイッチバック式でない)中間駅であったとしているが、当記事では「栃尾鉄道案内」路線図を基にした。
  3. ^ a b 『越後交通社史』の本文では明昌駅で統一されている。一方、社史掲載の各図表、車内補充券、近隣の集落名はの文字を用いている。
  4. ^ 資料によっては牛ヶトンネルと表記。現在の所在地は牛ケ嶺町。拡幅工事の上、県道として供用中。
  5. ^ 「サービスガール(嬢)」と呼ばれ、検札など車掌の業務も担っていた[2]
  6. ^ a b 越後交通社史[4]によれば、長岡と栃尾から一字ずつとった社名は世間一般に通じない恐れあり、と重役による社名変更提案が1914年3月総会で承認、翌月9日届出、とある。つまり、長尾鉄道として発足し、開業時点では栃尾鉄道を名乗った。
  7. ^ 『懐かしのトッテツ』p.103によれば同月1日。
  8. ^ 1921年(大正10年)の好間軌道への導入事例が日本初とされる。
  9. ^ 『懐かしのトッテツ』p.49 によれば同年4月。
  10. ^ 社史[8]の記述に基き概要を述べる。開通当初の路線は加津保駅の北約200m付近から耳取駅までほぼ一直線で、中間の椿沢駅は集落から大きく離れていた。住民の要望を受けて新路線を迂回させ、集落直近に新駅を設置した。耳取駅側の新旧路線切り替え地点に関する記述は記載されていない。
  11. ^ ただし荷物緩急車(ニフ)の旅客列車併結は末期まで続き、織物の輸送などに用いられた。また、1940年(昭和15年)に撮影とする混合列車の写真が残っており[9]、以後も不定期に混合列車が運転された可能性がある。
  12. ^ 正確には、1943年 (昭和18年) 5月1日 長岡 - 椿沢間、同年7月12日 椿沢 - 上見附間、と段階的に切り替えが行われ、残された区間の切り替えがこの日実施された。悠久山 - 長岡間については不明[12]
  13. ^ 社史[18]の記述に基く。実際のところ、一部の貨車、除雪車など、末期まで朝顔型連結器を装備した車両が存在する。
  14. ^ 瀬古ら (1969) では「上政学校前」となっている。
  15. ^ なお、大分交通時代はC11、C12を名乗っていた。
  16. ^ 付随車化後もパンタグラフは室内の電源用として残されていた。
  17. ^ クハ215に形式変更されたとする文献もある[33]

出典(官報)[編集]

  1. ^ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1913年6月26日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  2. ^ 『地方鉄道及軌道一覧 : 附・専用鉄道. 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  3. ^ 『日本全国諸会社役員録. 第23回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  4. ^ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1914年10月22日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  5. ^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1915年2月19日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  6. ^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1915年6月10日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  7. ^ 「軽便鉄道停留所設置」『官報』1915年7月6日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  8. ^ 「軽便鉄道停留所設置」『官報』1915年9月9日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  9. ^ 「軽便鉄道停留所設置」『官報』1916年1月21日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  10. ^ 「軽便鉄道運輸開始及停留所設置並哩程異動」『官報』1916年9月21日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  11. ^ 「軽便鉄道停留場設置」『官報』1916年12月21日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  12. ^ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1917年9月14日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  13. ^ 「軽便鉄道免許状失効」『官報』1918年9月26日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  14. ^ 「地方鐵道哩程異動」『官報』1920年1月13日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  15. ^ 「鉄道免許状下付」『官報』1922年6月1日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  16. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1924年5月8日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  17. ^ 「鉄道免許状下付」『官報』1927年10月19日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  18. ^ 「鉄道免許失効」『官報』1930年10月1日(国立国会図書館デジタルコレクション)

出典(その他)[編集]

  1. ^ 『越後交通栃尾線の車輛たち』, p. 4.
  2. ^ 『懐かしのトッテツ(栃尾鉄道)』, p. 59.
  3. ^ a b c d e f g 「私鉄要覧(1) 運輸省鉄道監督局監修 昭和32年度」『鉄道史料』第93巻、鉄道史資料保存会、1999年2月、pp62,70。 
  4. ^ 『越後交通社史』, p. 235.
  5. ^ a b 大正5年 新潟県統計書』(国立国会図書館デジタルコレクションより)によると長岡駅、下新保駅は1916年9月9日開業、神田口駅は同年12月6日開業。また加津保駅が1915年6月28日開業となっている。
  6. ^ 「栃尾鉄道の開通」『栃尾市史 中巻』1979年3月(国立国会図書館デジタルコレクション)
  7. ^ 「栃尾鉄道の開通」『見附市史 下巻 2』1983年(国立国会図書館デジタルコレクション)
  8. ^ a b 『越後交通社史』, p. 244.
  9. ^ 『写真集 新潟の鉄道百年』, p. 75.
  10. ^ a b 『越後交通社史』, p. 252.
  11. ^ 鉄道省監督局「地方鉄道、軌道事業の現況並に異動」『電気協会雑誌』第206号、日本電気協会、1939年2月、附録2頁。(国立国会図書館デジタルコレクション)
  12. ^ 『越後交通社史』, p. 253.
  13. ^ a b 『懐かしのトッテツ(栃尾鉄道)』, p. 47.
  14. ^ 『日本鉄道旅行地図帳 6号 北信越』, p. 46.
  15. ^ 寺田裕一『私鉄の廃線跡を歩くIII 北陸・上越・近畿編』, p. 164.
  16. ^ 越後交通社史, p. 268.
  17. ^ 『懐かしのトッテツ(栃尾鉄道)』, p. 31.
  18. ^ 『越後交通社史』, p. 311.
  19. ^ 『懐かしのトッテツ(栃尾鉄道)』, p. 56.
  20. ^ 広報とちお No.190 1972年10月 p.2 越後交通栃尾線 栃尾-上見附 議会が廃線に反対陳情 - 栃尾市
  21. ^ 広報とちお No.195 1973年3月 p.5 越後交通栃尾線4月16日から廃止 代替バス16.5往復を運行 - 栃尾市
  22. ^ ながおか市政だより No.312 1980年8月 p.5 駅東口 市営自転車駐車場オープン - 長岡市
  23. ^ ながおか市政だより No.420 1989年8月 pp.1-3 シンボルロードは歩くだけで楽しい気分 - 長岡市
  24. ^ 自然大好きクラブ 長距離自然歩道を歩こう! 新潟県(3)”. 環境庁. 2020年2月21日閲覧。
  25. ^ 路線価図 No.45139(見附市)”. 国税庁. 2020年2月21日閲覧。
  26. ^ 路線価図 No.45142(見附市)”. 国税庁. 2020年2月21日閲覧。
  27. ^ 路線価図 No.45143(見附市)”. 国税庁. 2020年2月21日閲覧。
  28. ^ 長岡地区 時刻表 - 越後交通.2019年5月14日閲覧。
  29. ^ a b c d e 『写真集 新潟の鉄道百年』.
  30. ^ a b c d 『越後交通栃尾線の車輛たち』.
  31. ^ 栃尾線の保存車輌
  32. ^ 『越後交通社史』, p. 270.
  33. ^ 『越後交通栃尾線の車輛たち』, p. 33.

参考文献[編集]

  • 青木栄一 著「昭和52年5月1日現在における補遺」、鉄道ピクトリアル編集部 編『私鉄車両めぐり特輯』 1巻、鉄道図書刊行会、東京、1977年、補遺2頁頁。 
  • 今尾恵介監修、矢代新一郎編集 『日本鉄道旅行地図帳 6号 北信越』 新潮社、2008年
  • 越後交通株式会社『越後交通社史』1985年。 
  • 川垣恭三 (1960). “越後交通栃尾線”. 鉄道ピクトリアル (1960年12月号臨時増刊:私鉄車両めぐり1): pp. 9, 35-38. (再録:鉄道ピクトリアル編集部 編『私鉄車両めぐり特輯』 1巻、鉄道図書刊行会、東京、1977年。 
  • 多川昌敏 著、懐かしのトッテツ編集委員会 編『懐かしのトッテツ(栃尾鉄道)』小川作蔵、あさひ印刷所、新潟県見附市本町2丁目15-9、2009年5月25日。 
  • 寺田裕一『私鉄の廃線跡を歩くIII 北陸・上越・近畿編』JTBパブリッシング、2008年
  • 寺田裕一『新 消えた轍-ローカル私鉄廃線跡探訪- 5 上信越』ネコ・パブリッシング、2011年
  • 瀬古龍雄・川垣恭三・反町忠夫・吉田豊 (1969). “越後交通栃尾線”. 鉄道ピクトリアル No. 232 (1969年12月号臨時増刊:私鉄車両めぐり10): pp. 8-10, 36-49. (再録:鉄道ピクトリアル編集部 編『私鉄車両めぐり特輯』 2巻、鉄道図書刊行会、東京、1977年。 
  • 栃尾鉄道株式会社、『栃尾鉄道案内』(国立国会図書館デジタルコレクション)、1915年。
  • 鉄道省『昭和12年10月1日現在鉄道停車場一覧』鉄道史資料保存会(1986年覆刻)、東京(覆刻は大阪)、1937年、p. 312頁。ISBN 4-88540-048-1 
  • 新潟日報事業社『写真集 新潟の鉄道百年』1978年。 
  • モデル8出版事業部『越後交通栃尾線の車輛たち』2017年。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]