西園寺公広

 
西園寺 公広
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文6年(1537年
死没 天正15年12月11日1588年1月9日
墓所 愛媛県西予市宇和町卯之町の光教寺
幕府 室町幕府
主君 長宗我部元親小早川隆景
氏族 伊予西園寺氏
父母 父:西園寺公宣、養父:西園寺実充
兄弟 公次公広宣久黒瀬公義
正室:西姫(西園寺実充娘)
なし
テンプレートを表示

西園寺 公広(さいおんじ きんひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将伊予国戦国大名伊予西園寺氏8代当主。黒瀬城主。西園寺十五将の一人。

生涯[編集]

天文6年(1537年西園寺公宣の子として誕生。もともとは伊予来住寺で僧籍にあったが、弘治2年(1556年)当主であった伯父・西園寺実充の実子である従兄弟の公高が戦死したため、永禄8年(1565年)公広は実充の養嗣子として迎えられて還俗し、実充の娘・西姫の婿となり、家督を継承した。同年には土佐国一条兼定を攻めている。

永禄11年(1568年)には毛利氏河野氏と手を結んで一条兼定・宇都宮豊綱津野氏を攻めて勝利した(鳥坂峠の戦い)。

元亀3年(1572年)には西園寺15将の1人土居清良の仲介で土佐一条氏一条兼定との和睦が成立している(清良記)。

天正12年(1584年長宗我部元親の猛攻を受けて降伏し、さらに翌天正13年(1585年四国平定を図る豊臣秀吉配下の小早川隆景に降伏した。その後は居城の黒瀬城のみを残され、新領主の隆景に属し九州平定に配下として従軍するなどしている。

天正15年(1587年)、隆景の転封に伴って新たに宇和の領主となった秀吉の家臣・戸田勝隆検地に反対する西園寺旧臣の一揆に遭い、公広がこの背後にいると疑いを向けた。「秀吉が本領安堵した」という偽の朱印状を示されて、勝隆に呼びつけられた公広は、戸田邸で謀殺された。享年51。実子も養子もなかったため、これにより大名としての伊予西園寺氏は完全に滅亡した。

辞世の歌は「黒瀬山 峰の嵐に 散りにしと 他人には告げよ 宇和の里人」。