藤田氏

藤田氏(ふじたし)は、日本氏族

概要[編集]

小野篁の子孫を称する武蔵七党猪俣党の猪俣政行(1155年に花園城を築いとたいわれる)が武蔵国榛沢郡藤田郷(埼玉県寄居町)に拠って藤田を称し、1590年豊臣秀吉による小田原征伐まで武蔵国北部の有力国衆として400年余り栄えた。

政行の子・藤田行康は源平合戦(治承・寿永の乱)の一の谷生田森の戦いで討ち死している。その子能国・孫能兼は承久の乱で活躍し、このとき能国が院宣を読み上げ、文博士といわれた。一族は幕府の問注所寄人であった。

小田原城北条氏康は武蔵国の覇権を握った後、武蔵北部支配の基盤を固めるために豪族の藤田氏15代目・藤田康邦に自らの四男・氏邦を幼少期から入婿させた。 氏邦は藤田康邦の娘を妻とし、1564年に小田原城の支城鉢形城(埼玉県寄居町)に入り、1582年まで藤田姓を名乗った。後に鉢形城は豊臣秀吉による小田原征伐によって前田利家・上杉景勝ら3万余の兵に囲まれ、一ヶ月の籠城を経て開城した。

康邦の子孫とされる藤田信吉徳川家康に仕えて活躍し、下野国西方に1万5,000石の所領を与えられた。

現在の埼玉県寄居町には藤田氏の菩提寺として1297年に藤田行康の孫・持阿が創建した藤田善導寺があり、町内には少林寺、正龍寺、連光寺など同じく藤田氏によって築かれた寺院群が見られる。 同じく藤田郷の出で持阿の師・性心は1288年に茨城県坂東市に高聲寺を創建。浄土宗藤田流の実質的な本山となり、近隣の藤田という地名の由来となったと考えられる。

常陸国久慈郡静神社祠官を世襲した一族に藤田氏がある。なお、水戸藩にも藤田幽谷(一正)(1774年 - 1826年)にはじまる藤田氏がある。本姓小野氏猪俣氏の末裔という。藤田幽谷は学者として著名で、子の藤田東湖は藩主徳川斉昭に仕えて改革を担った。東湖の四男・藤田小四郎筑波山水戸天狗党の首領の一人となる[1]。また、旧常陸守護佐竹氏の記録では、佐竹氏の一門にも藤田氏があり、藤田館の城主として存在していたという記録もある[2]

南北朝期武蔵守護代であった大石氏と、藤田氏は姻戚関係があり、武蔵平一揆の乱で能員は勲功を挙げ、永享のころ、宗員は藤田郷内の聖天堂を興隆している。その妻紀香は岩田氏の出身で、所領を鎌倉円覚寺に寄進した。長亨の乱山内扇谷上杉氏が同国須賀原・高見原で戦ったとき、藤田三郎は長尾景春にくみして戦い、永正のころ、藤田虎寿丸が神奈川権現山合戦に山内上杉憲房に加わっている。その憲房と北武蔵に進出した北条氏綱が対陣したとき、藤田右衛門佐は憲房の使者をつとめた。

天文初年、藤田右金吾業繁は「郡主」を称し、藤田小三郎は「鉢形」にあった。同15年、川越合戦北条氏康に敗れた上杉憲政は、上野平井に逃れ、藤田右衛門佐は大石定久と氏康に降った。

史料に拠れば、右衛門佐は藤田康邦とある。氏康の子氏邦はその女を妻とし、藤田氏を継ぎ、秩父郡天神山城から鉢形城に移り、鉢形領を支配した。後北条氏の上野進出では先鋒となり、沼田城代に猪股邦憲を置いた。家督を譲った康邦は用土村に移って藤田を用土に改姓したという。

猪股邦憲が真田氏の名胡桃城を奪い、怒った豊臣秀吉天正18年(1590年)小田原攻めの兵を起こし、鉢形城も前田利家に攻められた。氏邦は同城を明け渡し、利家に従い加賀金沢に赴き、同地で没したという。

異説によると、氏康の子氏邦を養子としたのは、畠山重忠の末裔藤田重利という。つまり平姓藤田氏である。重利の実子重連と信吉は早くから、子氏邦と隙を生じ、重連は氏邦に毒殺された。そこで信吉は武田勝頼に同心し、氏邦を上野沼田城に攻めて殺し、勝頼より本領を安堵され、能登守と称した。信吉はのち豊臣秀吉に仕え、さらに徳川家康に服して、下野那須郡1万5千石に封ぜられ、名を重信と改めたと言われる。しかし子がなく家は断絶した。

更に別流として藤田綱高がいる。綱高は康邦の一族と推定されるが、北条氏綱から偏諱を受け、北条氏康に御馬廻衆・奉行人に任じられていることから、早い時期から北条氏に従ったとみられている[3]

尊王志士・義民として行動した藤田姓の人物[編集]

佐幕派として行動した藤田姓の人物[編集]

  • 藤田直之介 - 小納戸役。諸生党として天狗党と戦い、元治元年(1864年)那珂郡額田村で討ち死にする[11]
  • 藤田松三 - 小普請組。諸生党として天狗党と戦い、元治元年(1864年)常陸で討ち死にする[11]

脚注[編集]

  1. ^ 太田亮『姓氏家系大辞典』 第3巻、上田萬年、三上参次監修、角川書店、1934年、5228頁。 
  2. ^ 冨村壽夫、冨村尚樹『佐竹氏物語 : 史上最長不倒の豪族』非売品、2011年、225頁。 
  3. ^ 浅倉直美 著「側近く仕えて氏康を支えた家臣たち」、黒田基樹 編『北条氏康とその時代』戒光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 2〉、2021年、73-74頁。 
  4. ^ 明田 1986, p. 398.
  5. ^ 明田 1986, p. 405.
  6. ^ a b c d e 明田 1986, p. 422.
  7. ^ 明田 1986, p. 423.
  8. ^ 明田 1986, p. 427.
  9. ^ 明田 1986, p. 414.
  10. ^ 明田 1986, p. 377.
  11. ^ a b 明田 1986, p. 260.

参考文献[編集]

  • 明田鉄男 編『幕末維新全殉難者名鑑』 第1巻、新人物往来社、1986年。ISBN 4404013353 

関連項目[編集]