藤田信男

藤田信男
1930年(昭和5年)、東京六大学野球で初優勝を果たした当時の法大野球部(後列左端が藤田信男)

藤田 信男(ふじた のぶお、1903年1月9日 - 1992年4月25日)は、大学野球の選手・指導者として活躍した人物である。元法政大学名誉教授。中国天津市生まれ。

略歴・人物[編集]

兵庫・伊丹中学(現兵庫県立伊丹高)から法政大学に進み外野手として活躍、主将も務めた。1927年卒業後、監督代理を経て1929年に法大野球部の3代目監督に就任した。日本遠征で訪れたハワイチームのエース若林忠志を勧誘するなどチーム強化に努め、1930年東京六大学秋季リーグ戦でチームを創部初の優勝に導いた。その後1940年まで12年の任期中4回のリーグ優勝を達成、法大野球部の第一次黄金時代を創り上げた

監督を退いた後は東京六大学野球連盟(就任当時は東京大学野球連盟)の理事に就任、戦時下の野球統制に対して飛田穂洲らとともに軍部・文部省による弾圧阻止に奔走した。
戦後も法大野球部部長を1973年まで務め、生涯を法大野球部の発展に捧げた。このことから「法政野球部の父」と呼ばれる。そのかたわらで東京六大学野球連盟の理事長・規則委員などの要職を長く務めたほか、日本学生野球協会副会長・全日本大学野球連盟理事長などを歴任、日本学生野球憲章の制定(1950年)に関わるなど、日本の学生野球界の発展に尽力した。

これらの功績によって1987年、特別表彰で野球殿堂入りした。

藤田の後継の法大監督で近鉄パールス初代監督の藤田省三は実弟。

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