藤本琇丈 (初代)

しょだい ふじもとひでお
初代 藤本琇丈
本名 山田秀
別名義 杵屋勝幸二・蓼胡穣・哥沢芝梅・藤本秀夫(旧芸名)
生年月日 (1923-05-21) 1923年5月21日
没年月日 (2006-02-28) 2006年2月28日(82歳没)
出生地 日本の旗 東京市滝野川区
職業 民謡端唄小唄哥沢長唄三味線
活動期間 1941年 -2006年
活動内容 民謡・端唄・小唄・哥沢・長唄の三味線方、作曲。
配偶者 山田直江
著名な家族 二代藤本琇丈(長男)
藤本直久(弟)
朝倉文夫(叔父)
朝倉摂(従姉妹)。            
主な作品
『民謡ひなぶり三番叟』
『広島木遣り音頭』
『手古舞木遣り』ほか多数
受賞
1959年 - 財団法人日本民謡協会技能章
1965年 - 文部省芸術祭奨励賞-
1980年 - 財団法人日本民謡協会名人位
1986年 - 第6回伝統文化ポーラ大賞・特賞
1987年 - 紫綬褒章
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初代 藤本 琇丈(しょだい ふじもと ひでお、1923年5月21日 - 2006年2月28日)は昭和から平成期に活躍した民謡端唄三味線の演奏家。
藤本流初代家元・藤本会会長・日本民謡歌謡学院院長。
小唄の芸名は蓼胡穣・哥沢の芸名は三代目哥沢芝梅。
多種の三味線を弾き分け、尚且つそれぞれの分野で第一人者であった。
現在の民謡三味線を譜面化・通信教育によって全国へ普及させ、また多くの三味線奏者、歌手を育て、民謡界に藤本帝国を築き上げた。

没後の2007年(平成19年)4月24日、長男の洋久(前名藤本博久)が二代目を襲名した。

生い立ち[編集]

本名山田 秀

1923年(大正12年)5月21日、東京市滝野川区田端町に、父・山田縫次郎、母・滋(しげ)の次男として生まれる(長男・光夫は1924年(大正13年)に病没)。
父は下谷の数奇屋町で料亭「千代田」を経営していた。三男・純三は同じく三味線奏者の藤本直久として活躍。
父方の叔母は、彫刻家朝倉文夫夫人。従姉妹は舞台美術家朝倉摂

芸歴[編集]

  • 5歳の頃三代目常磐津文字兵衛常磐津乗合船恵方万歳」をレコードで聞き、三味線の音に魅せられたのをきっかけに、1928年(昭和3年)、5歳で杵屋弥栄という女流の師匠に長唄の手ほどきを受ける。
  • 7歳で常磐津操太夫に入門。
  • 1931年(昭和6年)11月25日、山楽クラブにて行われた杵屋弥栄のお浚い会において、「小鍛冶」を弾いて初舞台。時に8歳であった。
  • 初舞台後に、杵屋和助の許へ移籍。
  • 中学生に上がる頃、常磐津操太夫より養子縁組の話があったが、父の反対に遭い、そのまま常磐津を辞める。
  • 同じ頃、長唄の修行を強化するために、五世杵屋和吉の門下となり、子息の二世杵屋勝之助に師事。
  • 1941年(昭和16年)2月6日、杵屋勝幸二の名を許される。師に従い、東宝邦楽部に所属。
  • 戦後、東宝邦楽部を退部し、生活の為に端物(端唄、俗曲などの小曲)へ転向。名を杵屋秀夫と改める。
  • 1948年(昭和23年)頃、興行師中村与吉の勧めにより、当時既に端唄の大家であった藤本二三吉の三味線を、二三吉の実姉小静と組んで弾くことになる。
  • 二三吉と小静が芸苗字(本名の藤本)を名乗ることになり、これに従って芸名を藤本秀夫と改める。
  • 1949年(昭和24年)、新井検番の専属師匠となる。(俗曲の師匠としては初)。その後全国各地の検番師匠を務めるようになる。
  • 1951年(昭和26年)、小唄の初代蓼胡蝶に入門。
  • 1953年(昭和28年)3月3日、林直江と結婚。
  • 1954年(昭和29年)4月12日、長女・英津子誕生。
  • 1954年(昭和29年)、小唄の名取として蓼胡穣(たで こじょう)を許される。
  • 1957年(昭和32年)、キングレコードの専属となる。
  • 1958年(昭和33年)6月14日、『第1回藤本会発表会』を開催する。(以後回を重ねる)
  • 1958年(昭和33年)7月28日、父縫次郎死去(享年75)。
  • 1959年(昭和34年)、財団法人日本民謡協会より技能章を受章。
  • 1961年(昭和36年)6月2日、長男洋久(後の藤本博久。藤本流二代目家元)誕生。
  • 1962年(昭和37年)、財団法人日本民謡協会の理事に就任。
  • 1963年(昭和38年)、キングレコードの邦楽参与に就任。
  • 1964年(昭和39年)9月、読売ホールに於いて、『第1回 藤本会公演』を開催する。
  • 1964年(昭和39年)12月、杉並区永福町に転居し、日本民謡歌謡学院の看板を掲げ、通信教育を始める。
  • 1965年(昭和40年)、「うた沢の成立と発展」で第20回文部省芸術祭の奨励賞を受賞。
  • 1965年(昭和40年)、町田佳聲の勧めにより、芸名を「秀夫」から「琇丈」へ改名。
  • 1966年(昭和41年)、財団法人日本民謡協会の参与に就任。
  • 1966年(昭和41年)10月1日、新宿厚生年金会館に於いて、『第2回藤本会公演』を開催。
  • 1968年(昭和43年)、アメリカサンフランシスコに藤本三味線研究会が発足。
  • 1969年(昭和44年)10月、財団法人日本民謡協会の名誉教授に就任。
  • 1971年(昭和46年)1月27日、母滋死去(享年83)
  • 1972年(昭和47年)6月28日、国立劇場大劇場に於いて、『第3回藤本会公演』を開催。
  • 1973年(昭和48年)3月25日、四世哥沢土佐芝金より、哥沢の名取として三代目哥沢芝梅の名を許される。
  • 1976年(昭和51年)10月29日、藤本二三吉死去(享年78)。
  • 1977年(昭和52年)2月9日、キングレコードより昭和51年度特別功労賞受賞。
  • 1977年(昭和52年)2月、アメリカ・サンフラシスコの藤本三味線研究会を発展解消、藤本会サンフランシスコ支部として新規に発足。
  • 1977年(昭和52年)9月24日、国立劇場大劇場に於いて、『第4回藤本会公演』を開催。
  • 1978年(昭和53年)6月16日、芸道50周年記念パーティーを帝国ホテルにて開催。これを記念して自叙伝『みすじひとすじ 藤本琇丈三味線五十年の記』を出版。
  • 1978年(昭和53年)6月25日、『藤本会サンフランシスコ支部10周年記念公演』を、ジャパンセンター劇場で開催。
  • 1979年(昭和54年)2月27日~3月1日、有楽町の日本劇場に於いて、『藤本琇丈三味線ひとすじ五十年 民謡の旋律(しらべ)』を開催。
  • 1980年(昭和55年)、財団法人日本民謡協会より名人位を受章。
  • 1982年(昭和57年)2月、端唄協会が発足し、初代会長に就任。顧問は江戸小歌市丸
  • 1982年(昭和57年)6月、東洋音楽学会会員に推薦される。
  • 1983年(昭和58年)5月13・14日、国立劇場大劇場に於いて、『第5回藤本会公演』を開催。
  • 1983年(昭和58年)8月21日、『藤本会サンフランシスコ支部15周年記念公演を』、ジャパンセンター劇場で開催。
  • 1984年(昭和59年)10月16日、藤本会台湾公演『日本民謡之暁』を文化中心演芸庁で開催。
  • 1986年(昭和61年)7月11日、第6回伝統文化ポーラ大賞・特賞を受賞。
  • 1987年(昭和62年)5月21日、『キングレコード在籍30年・芸道60周年記念祝賀パーティー』を新高輪プリンスホテルにて開催。これを記念して自叙伝『みすじひとすじ 藤本琇丈三味線六十年の記』を出版。(50周年の折に出版されたものに加筆・修正したもの)
  • 1987年(昭和62年)、春の叙勲で紫綬褒章を受章。
  • 2006年(平成18年)2月28日、心不全のため死去(享年82)。

門弟(独立者含む)[編集]

関連項目[編集]

関連人物[編集]