藤堂高雅

 
藤堂高雅
時代 江戸時代中期
生誕 享保12年12月28日1728年2月13日
死没 宝暦12年9月20日1762年11月5日
改名 幸次郎(幼名)、高雅
戒名 元覚院殿慈達諦岸大居士
墓所 三重県津市寿町の寒松院
官位 従五位下、佐渡
幕府 江戸幕府
伊勢国久居藩
氏族 藤堂氏
父母 父:藤堂高治、母:長谷氏(直生院)
兄弟 高雅高般
正室:前田利隆の娘・(妙仙院)
継室:柳沢信鴻の養女(柳沢信睦の娘)・千賀
養子:高敦(のちの高嶷
テンプレートを表示

藤堂 高雅(とうどう たかまさ)は、江戸時代中期の大名伊勢久居藩の第6代藩主。久居藩藤堂家6代。久居陣屋の主。

生涯[編集]

公的には、享保6年(1722年)12月28日、藤堂家一門の藤堂出雲家第4代・藤堂高武の四男として津で生まれたとされるが、実は、享保12年(1728年)12月28日、久居藩藩主だった藤堂高治の長男として久居で生まれた。早く末期養子を迎えられる17歳に達するために生年を偽って幕府に届けられており、幕府が編纂した『寛政重修諸家譜』では享保6年(1722年)生まれとされ、『藤堂家譜』、『公室年譜略』等では正しい生年の享保12年(1728年)とされる。

享保20年(1735年)8月2日、津藩主の父高治が死去。幸次郎(高雅)はまだ9歳と幼いため、久居藩主・高豊が本家津藩主として転任し、高豊に代わって久居藩主を継いだ。元文3年(1738年)、桜田防火使となり、その後も神田橋門監衛、大手防火使になる。同年12月18日に叙任する。

藤堂高雅の墓(津市寒松院)

藩政においては、雲出川の洪水による領民に対する救済、財政難による倹約や家臣の生活救済に尽力した。宝暦12年(1762年)9月20日、久居で死去した。享年36。

跡を養子の高敦(高豊の長男)が継いだが、高敦ものちに津藩主を継いだ(その際に高嶷と改めた)。

系譜[編集]

父母

正室、継室

養子

参考文献[編集]