藤堂氏勝

藤堂 氏勝(とうどう うじかつ、? ‐ 慶長20年(1615年)5月6日)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将藤堂家の家臣。通称、勘解由。前名は長井勘解由氏勝

略歴[編集]

本姓は長井氏である。

天正18年(1590年)に藤堂高虎に仕える。

朝鮮出兵に従軍し、慶長2年(1597年)9月に鳴梁海戦で功をあげ、加増の上、藤堂姓を名乗ることを許された。

関ヶ原の戦いでも功をあげる。

板嶋城天守の普請奉行をつとめた。

大坂の陣に一隊を率いて従軍し、冬の陣で功があり1千石を加増された。当時2千石だったという[1]

夏の陣・八尾の戦い長宗我部盛親隊と戦い[2]、長宗我部勢の左側面を狙うも、長宗我部主水[3]が猛攻を繰り出し氏勝は下馬して戦った。主水が氏勝の左脇を槍で突くが、家臣の村田平左衛門が助太刀し逃れる。しかし致命傷を負ったため退却中に死亡した。

この戦いでは藤堂高刑桑名吉成らが討ち死にした。

八尾常光寺[4]に葬られる。

その後[編集]

大将が討死して首を獲られた他の隊の兵は恩賞なかったが、氏勝の隊だけは息子の氏紹が遺体を持って帰ったため、功があった者には加増があった。

伊勢津藩の重臣[5]として子孫は続いた。

参考資料[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 大坂兵制。
  2. ^ 『公室年譜略』に、旗本前備‐馬上弓隊二拾騎歩弓足軽三拾人‐藤堂勘解由、とある。
  3. ^ 南岡四郎兵衛の息子。
  4. ^ 八尾市本町5-8-1
  5. ^ 越前出兵の際の軍制では子の藤堂氏紹騎馬弓弐拾騎弓二拾人、とある。