蒲鮮万奴

蒲鮮万奴
大真国
初代皇帝
蒲鮮万奴(Púxiān Wànnú)
王朝 大真国
在位期間 1214年 - 1233年
都城 南京
姓・諱 蒲鮮万奴
生年 不明
没年 不明
年号 天泰 : 1215年 - 1223年
大同 : 1224年 - 1233年

蒲鮮 万奴(ほせん ばんど、生没年不詳)は、13世紀前半に中国東北部(満州)からロシア沿海地方で活動した女真武将金朝に仕えていたが、金末の混乱期に自立して大真国を建国した。

聖武親征録』では也奴、『元朝秘史』では夫合奴とも表記されるが、これらはいずれも「万奴(ṳan nu)」同音異訳であると見られる[1][2]。また、ペルシア語史料の『集史』ではفوجیو تاییشی(fūjīū tāīīshī)とも表記される[3]

蒲鮮万奴の列伝は『金史』『元史』ともに存在せず、その生涯については諸史料に断片的な記録に残るに過ぎない。そのため、蒲鮮万奴の生涯については不明な点が多く、日本の東洋史学者の間でも活発な議論がなされたことがある。

概要[編集]

出自[編集]

蒲鮮万奴の出自については史料上に全く記載がないが、『元史』巻119列伝6塔思伝などでは「完顔万奴」とも表記され[4]、金朝の宗室に連なる家系の出であったと見られる[5]。これを裏付けるように、『帰潜志』巻5には「[金の]宗室の万奴」、「東平王世家」には「完顔万奴、金の内族也」と記されている[6]

蒲鮮万奴が始めて史料上に現れるのは1206年泰和6年/丙寅)のことで、開禧用兵によって侵攻してきた南宋の将の皇甫斌を撃退するため金・南宋国境地帯に派遣された[2][7]。平章の僕散揆の配下にあった「副統尚厩局使」の蒲鮮万奴は完顔賽不・完顔達吉不らとともに7千騎を率いて南宋軍を夜襲し、完顔賽不が中軍を、完顔達吉不は左翼軍を、蒲鮮万奴は右翼軍をそれぞれ率いて南宋軍を大いに撃ち破った[7]。南宋軍が潰走すると蒲鮮万奴は真陽路への道を断って退路を塞ぎ、金軍は陳沢で南宋軍を包囲し斬首2万級・戦馬や家畜1千余りを得る大勝利を得た[7]。この大勝利を受けて完顔賽不・蒲鮮万奴はそれぞれ爵位を上げられ[8]、以後蒲鮮万奴が金の将として重用される端緒を作ることになった[2]

金の宣撫使として[編集]

チンギス・カン在世中の諸遠征とモンゴル帝国の拡大

1211年大安3年/辛未)、モンゴル軍の侵攻を受けた金朝は野狐嶺の戦いにおける惨敗によって長城以北の統制を失い、遼東方面では契丹人耶律留哥が金軍を破り、モンゴル軍の助けを得て自立した。これを受けて、金朝朝廷は東北路招討使の官衙をタオル河流域の泰州から東方のスンガリ河流域の肇州に移し[9]、これにあわせて耶律留哥討伐のため完顔鉄哥と蒲鮮万奴を派遣した[10]。この時、蒲鮮万奴は完顔鉄哥と行動を別にして咸平府に駐屯しており[11]、当初は北方の肇州から完顔鉄哥が、南方の咸平から蒲鮮万奴が、丁度その中間に位置する耶律留哥を挟み撃ちにする計画であったと見られる[12]

しかし、完顔鉄哥の方が軍が強力なことを忌避した蒲鮮万奴は騎兵2千を派遣するよう要請し、また独自に泰州から兵3千と戸口を咸平に移そうとした[11]。蒲鮮万奴の「異志」を察知していた完顔鉄哥は蒲鮮万奴の要求を拒否したものの、蒲鮮万奴が宣撫使に昇格すると援軍を派遣しなかった罪により完顔鉄哥は殺害されてしまった[11]。蒲鮮万奴の遼東派遣、咸平等路宣撫への任命が1214年貞祐2年/甲戌)に行われたことは、モンゴル側の史料『聖武親征録』にも記載がある[13][14]

同年秋頃、自らに逆らう完顔鉄哥を排除した蒲鮮万奴は奥屯襄らとともに遂に耶律留哥討伐のため40万と号する大軍を率いて北上した[15]。耶律留哥は蒲鮮万奴軍を帰仁県北の河沿いに迎え撃ち、激戦の末蒲鮮万奴軍は潰走して東京遼陽府まで逃れた[16]。これを受けて金の宣宗は11月に詔を蒲鮮万奴・奥屯襄らに出し、「上京・遼東」は国家の重地であって、各軍は相互に協力して挽回せよと命じている[17][18][19]

大真国の樹立[編集]

遼河周辺図

1215年(貞祐3年/乙亥)正月、モンゴル左翼軍に属する石抹エセンの助けを得た耶律留哥は蒲鮮万奴の駐屯していた東京遼陽府を攻略し、遼東一帯を平定した。この頃の蒲鮮万奴の動向は明らかではないが、耶律留哥との直接対決を避けて同年3月には瀋州・広寧方面で軍を率いて駐屯していたようである[20][21]。一方、耶律留哥の陣営(東遼)では耶律可特哥が蒲鮮万奴の妻の李僊娥を娶ったことが問題となり、自らの地位に不安を抱いた耶律可特哥は耶律廝不らを抱き込んで耶律留哥に叛旗を翻した(後遼政権)[22]

東遼の内紛を好機と見た蒲鮮万奴は独自に咸平府・遼陽府・瀋州・澄州などを攻略して事実上金朝より離反し、多くの猛安・謀克がこれに従った[23]。同年3月、蒲鮮万奴は9千の兵を率いて高麗国境に近い婆速路の境に進軍したものの、桓端が派遣した温蒂罕怕哥輦によって撃退された[23]。4月には上京会寧府を掠奪するも、金の都統兀顔鉢轄がこれを迎え撃った[23]。また、この時蒲鮮万奴は別に5千の兵を望雲駅攻略に派遣しているが、都統奥屯馬和尚・都統夾谷合打によって三叉里で撃退されている[23]。5月には逆に都統温蒂罕福寿によって蒲鮮万奴の兵が大寧鎮で攻められ、殲滅された[23]。9月には蒲鮮万奴配下の9千が宜風・湯池に出たが、桓端に敗れて潰走した[23]。しかし、同時期に奄吉斡・都麻渾・賓哥・出台・答愛・顔哥・不灰・活拙・按出・孛徳・烈隣の11猛安が蒲鮮万奴に来附しており[23]、女真族の再結集を目指すという蒲鮮万奴の意図は遼東一帯の女真人に共有されていたようである[24]

遼東の大部分を平定し、自信を深めた蒲鮮万奴は同年10月、遂に「天王」と称し、国号を大真と定め、天泰と改元した[25][26]。しかし、これ以後遼東では耶律留哥の東遼と離反した耶律廝不ら後遼の抗争が激しくなったためか、大真の建国から翌年の夏頃までの蒲鮮万奴の動向はほとんど記録に残っていない[27]。ただし、高麗側の記録(『高麗史』)にはこの頃蒲察移剌都が蒲鮮万奴を破ったとの伝聞情報があり、大真国と金国の残存部隊の間で一進一退の攻防が繰り広げられていたようである[28]

モンゴルへの服属と東遷[編集]

上京会寧府略図

1215年から1216年にかけて後遼・大真の自立によって遼東状勢が混迷を深めていた一方、モンゴル軍はこの方面に着実に勢力を広げており、1216年(貞祐4年/丙子)7月にはムカリが張致を破って遼西の大部分を平定していた[29]。ここに至り、モンゴルの圧迫を避けがたいと見た蒲鮮万奴は投降を決意し、息子のテゲを質子(トルカク)としてモンゴルに差し出した[30]。しかし、蒲鮮万奴は息子を差し出す一方でモンゴルへの完全な服属は拒み、10万余りの部衆を率いて「海島」に逃れた[31]。この「海島」を「東海」すなわち日本海方面と解釈する説もあるが、大真国の宰相王澮が「浮海に遯去した」という記録があることから[32]鴨緑江下流域の鉄州に属する椵島こそが蒲鮮万奴の逃れ込んだ海島であるとする説もある[33]

1217年興定元年/丁丑)正月、金朝より高麗国の寧徳城に蒲鮮万奴の高麗領侵攻を警告する使者が訪れており[34]、同年春頃には蒲鮮万奴は海島より遼東半島に戻っていたようである[35]。同年4月には金朝の警告通り蒲鮮万奴の兵が高麗領の大夫営を攻撃し、蒲鮮万奴と戦うために金の兵90人余りが鴨緑江を越えて高麗領最北端の義州に入っている[36]。一方、金朝の側でも高麗国と接する婆速路が蒲鮮万奴の攻撃を受けていることが問題となり、完顔阿里不孫が婆速路に、蒲察五斤が上京路に、それぞれ派遣された[37][38]

高麗方面の出兵が不調に終わると、蒲鮮万奴は方向を変えて北東方面、すなわち女真人の故地となる地方への進出を始めた[39]。蒲鮮万奴が始めて曷懶路(現在の北朝鮮東北部から中露国境地帯)への移動を表明した時、梁持勝なる人物が反対を表明したため杖刑に処せられた[40]。梁持勝は密かに蒲鮮万奴の陣営を逃れて上京会寧府の行省太平に蒲鮮万奴の意図を伝えたものの、既に蒲鮮万奴と通じていた太平は金朝を裏切って上京の宗廟を打ち壊し、元帥の承充を捕らえてその軍を奪った[40]。これを受けて蒲鮮万奴軍は上京に迫り、蒲鮮万奴への投降を拒んだ同知上京留守事の温蒂罕老児も蒲鮮万奴の息子のテゲによって殺されてしまった[41]

蒲鮮万奴による上京攻略は上首尾に運んだかに見えたが、元帥承充の娘の阿魯真は事態を知ると守備を固めて蒲鮮万奴の軍を拒み、承充が書いたとされる書状が届けられても詐術であるとして破り捨ててしまった。そこで蒲鮮万奴は力攻めを始めたが、阿魯真は男性の服をまとって息子の蒲帯とともに力戦し、蒲鮮万奴の兵数百人を殺し十人余りを捕虜とした[42]。また、太平に欺かれた梁持勝が提控咸平治中裴満賽不・万戸韓公恕約と協力して太平を殺害したこともあり[40]、思わぬ損害を蒙った蒲鮮万奴はやむなく包囲を解いて本来の目的地である曷懶路に向かった。また、上京で蒲鮮万奴と戦った紇石烈徳が戦後に「東京」に移ったとの記録があり[43]、東京遼陽府を含む遼東一帯はこの時蒲鮮万奴の支配を脱し、金朝が支配を回復したようである[44]

「東夏国」時代[編集]

遼東地方一帯を放棄した蒲鮮万奴は東に進んで金の行政区画で言う所の合懶路・曷蘇館路・胡里改路、すなわち現在のロシア・中国・北朝鮮にまたがる日本海沿岸〜黒竜江中上流域を支配した[45]。この領域では多数の中世城郭都市の遺跡が発見されており、とりわけ規模の大きいクラスノヤロフスコエ城址と城子山山城は文献史料上に記載のある「開元府」と「南京」にそれぞれ相当すると見られる[46][47]。また、『元史』巻1太祖本紀には一度モンゴルに降った蒲鮮万奴が「既にしてまた叛し、東夏を僭称した」と記されており[30][48]、これ以後蒲鮮万奴の勢力は「東夏国」と呼ばれるようになる。蒲鮮万奴が「東夏国」と称するようになった経緯、時期については諸説あるが、遼東一帯を放棄して東北地域を拠点に定めたことと結びつける説が主流である。なお、高麗国は何らかの理由で一貫して「東夏国」を史料上で「東真国」と呼称しているが、ここでは「東夏国」に統一して表記する。

蒲鮮万奴が遼東地域から北上して上京方面に出ていた頃、耶律留哥から離反した契丹人集団(後遼)は金朝の攻撃を受けて鴨緑江を渡り、高麗国内に侵入していた[49]。耶律留哥への支援を約していたチンギス・カンは後遼の討伐のため哈真と札剌という武将を遼東方面に派遣したが、この時蒲鮮万奴もまた再びモンゴル帝国に服属したようである[50]。そして1218年(興定2年/戊寅)12月、東夏国領を通過した「モンゴル(蒙古)元帥」の哈真と札剌率いるモンゴル帝国軍1万・蒲鮮万奴が派遣した完顔子淵率いる東夏国軍2万の連合軍が高麗の東北国境より現れ、高麗国に協力して「丹賊(=後遼政権)」を討伐することを申し出た[51]。高麗はモンゴル・東夏連合軍の申し出を受け容れ、協力して後遼政権を江東城にて滅ぼし、モンゴル帝国と高麗は「兄弟の関係」を結んだ[52]

1219年(興定3年/己卯)よりチンギス・カンが西方遠征を始め、モンゴル軍の大部分が東アジアを離れたこともあり、1220年代の東北アジアでは東夏国・高麗国・遼東の金朝残存勢力が並立する状況が定着した。江東城の戦いを経てモンゴル帝国と友好関係を樹立した高麗国は、毎年互いに使者を派遣することを約し、使者は必ず「万奴之地(東夏国)」を通過するよう取り決められていた[53]

ところが、1224年正大元年/甲申)正月に東夏国は高麗に使者を派遣し、二通の国書をもたらした。一通には「モンゴルのチンギス・カンは絶域に赴いて所在が知れず、[モンゴル本土に残ったチンギスの末弟]オッチギンは貪暴不仁であり、[東夏国はモンゴル帝国との]旧好を既に絶った」と記され、もう一通には榷場(交易管理所)を互いに設置することの要求が記されていた[54]。これを受けてモンゴル帝国の使者古与らは従来の東夏国領を通るルートではなく鴨緑江下流域を越えて高麗国内に入ったが[55]1225年(正大2年/乙酉)正月の帰路にて盗賊によって殺害されてしまった[56]。この一件を経てモンゴル帝国・東夏国・高麗国の関係は悪化し、定期的な使者のやり取りは途絶え、蒲鮮万奴はしばしば高麗に出兵するようになった。1225年8月には朔州[57]1227年(正大4年/丁亥)9月には定州・長州を[58]1228年(正大5年/戊子)7月には長平鎮を[59]、それぞれ東夏国の兵が侵掠している。1229年(正大6年/己丑)2月には東夏国より高麗に講和の使者が出されたが[60]、交渉は失敗に終わり[61]再び高麗領和州が掠奪を受けた[62]。この間、蒲鮮万奴が高麗国に語ったようにモンゴル帝国ではチンギス・カンが常に遠征の途上にあり、モンゴル軍は遼東方面にはほとんど介入することがなかったことが東夏国の延命に幸いしていた。しかし、チンギス・カンが死去しその息子のオゴデイを中心とする新たな体制がモンゴルで発足すると、東夏国は再びモンゴル軍の侵攻に晒されることとなる。

東夏国の滅亡[編集]

1231年のモンゴル軍の高麗侵攻図

東夏国と高麗国の関係が悪化し始めていた1226年(正大3年/丙戌)6月、これを好機と見た金朝では遼東行省のジェブゲ(哥不靄)に改めて蒲鮮万奴の討伐を命じていた[63][64]。ジェブゲと東夏国がどのような戦いを繰り広げていたかは不明であるが、モンゴル帝国の側でも早くからこの2つの勢力を危険視していた[65]

チンギス・カンが死去した翌年の1228年(正大5年/戊子)、「金の平章ジェブゲが遼東で活動していること」と「蒲鮮万奴が開元で自立していること」を理由に、サリクタイ・コルチという将軍が遼東方面に派遣されることになった[65]。この年ははるか西方のイランジャラールッディーン・メングベルディー討伐のためにチョルマグンが派遣された年でもあり、サリクタイとチョルマグンは「一度征服した地域で蠢動する反攻勢力を討伐する」という共通の目的を持って派遣された「タンマチ(タマ軍)」であると考えられている[66]。なお、このサリクタイ軍は耶律留哥の息子の耶律薛闍を始め、移剌買奴、王栄祖らチンギス・カンの時代よりモンゴル帝国に仕える譜代の契丹人将軍が主体となっていた[67]。1229年(正大6年/己丑)にはウヤル元帥や王栄祖らを率いたサリクタイが遼東に入り、蓋州・宣城等の十城余りを攻略し、ジェブゲも敗走して死んだため[65]、モンゴル帝国は遂に遼東一帯を征服した[68]

しかし、遼東を平定したサリクタイは東夏国の方面には進まず、高麗国に進軍することになった[68]1231年(正大8年/辛卯[69]に高麗国に現れたサリクタイ軍は高麗に対して「汝の国がもし下らなければ、我が軍は引き返すことがないだろう。下れば、我が軍は東夏に向かって去るだろう」と述べており[70]、当初からサリクタイ軍は遼東→高麗→東夏の順で進軍する予定であったようである。ところが、一旦は降伏を受け容れたかに見えた高麗がすぐに叛旗を翻したことにより、1232年(正大9年/壬辰)にサリクタイは水州の処仁城攻めで流れ矢に当たり戦死してしまい、その間の事情は高麗より書簡で東夏国に伝えられた[71]

折しも、サリクタイの遼東・高麗侵攻と同時進行で進められていた金朝侵攻は1232年の三峰山の戦いの戦いを経て大勢が決しつつあり、オゴデイ・カアンを含むモンゴル軍本隊は北上してモンゴル高原に帰還しようとしていた。ここに至り、1233年(天興2年/癸巳)にモンゴル諸王の議論(クリルタイ)の末、オゴデイの王子のグユクと王族のアルチダイを主将とする正式な遠征軍を蒲鮮万奴に対して派遣することが決められた[72]。グユクとアルチダイ、そしてかつて遼西を席巻したムカリの孫のタシュら率いる軍団は1233年9月に東夏国に侵攻し、東夏国は完全に滅亡した。蒲鮮万奴は生け捕りにされたが[4]、その後の消息は史料上に記されていない。ただし、蒲鮮万奴がモンゴル帝国に質子(トルカク)として差し出したテゲ・コルチは引き続きモンゴルの有力武将として重用されている。

脚注[編集]

  1. ^ 岩井1932,39頁
  2. ^ a b c 周2021,19頁
  3. ^ Rawshan 1373,pp.451-452/Thackston 2012,p.157/余大鈞・周建奇1985,p.238
  4. ^ a b 『元史』巻119列伝6塔思伝,「癸巳秋九月・従定宗於潜邸・東征・擒金咸平宣撫完顔万奴於遼東。万奴自乙亥歳率衆保東海・至是平之」
  5. ^ 岩井1932,59頁
  6. ^ 岩井1932,64頁
  7. ^ a b c 『金史』巻113列伝51完顔賽不伝,「完顔賽不、始祖弟保活里之後也。……[泰和]六年六月、宋将皇甫斌遣率歩騎数万由確山・褒信分路侵蔡、聞郭倬・李爽之敗、阻溱水不敢進。於是、揆遣賽不及副統尚厩局使蒲鮮万奴、深州刺史完顔達吉不等以騎七千往撃之。会溱水漲、宋兵扼橋以拒、賽不等謀潜師夜出、達吉不以騎渉水出其右、万奴等出其左。賽不度其軍畢渡、乃率副統阿魯帯以精兵直趨橋、宋兵不能遏、比明大潰。万奴以兵断真陽路、諸軍追撃至陳沢、斬首二万級、獲戦馬雑畜千餘。兵還、進爵一級、賜金幣甚厚」
  8. ^ 『金史』巻12章宗本紀4,「[泰和六年六月]戊辰……都統賽不・副統蒲鮮万奴各進爵一級、賜金幣有差」
  9. ^ 『金史』巻122列伝60忠義2烏古論徳升伝,「宣宗遷汴、召赴闕、上言『泰州残破、東北路招討司猛安謀克人皆寓於肇州、凡徴調往復甚難。乞升肇州為節度使。以招討使兼之。置招討副使二員、分治泰州及宜春』。詔従之」(池内1943,544頁)
  10. ^ 池内1943,543-544頁
  11. ^ a b c 『金史』巻103列伝41完顔鉄哥伝,「貞祐二年、枢密使徒単度移剌以鉄哥充都統、入衛中都。遷東北路招討使、兼徳昌軍節度使。蒲鮮万奴在咸平、忌鉄哥兵強、牒取所部騎兵二千、又召泰州軍三千及戸口遷咸平。鉄哥察其有異志、不遣。宣撫使承充召鉄哥赴上京、命伐蒲与路。既還、適万奴代承充為宣撫使、摭前不発軍罪、下獄被害」
  12. ^ 池内1943,544-545頁
  13. ^ 『聖武親征録』,「[甲戌]夏四月、金主南遷汴梁、留其太子守中都、以丞相完顔福興・左相秦忠為輔。……先是耶律留哥以中国多故、拠有東京・咸平等郡、自称遼王。斫答比渉児等遣使詣上行営納款、又求好於遼王。時遼王亦来降、上命為元帥、令居広寧府。金主之南遷也、以招討也奴為咸平等路宣撫、復移於阿必忽蘭。至是亦以衆来降、仍遣子鉄哥入侍。既而復叛、自称東夏王」
  14. ^ ただし、『聖武親征録』は蒲鮮万奴が咸平等路宣撫になった後すぐにモンゴルに投降したかのように記し、『元史』「太祖本紀」などの史料と矛盾する。そのため、岩井大慧などは1214年に蒲鮮万奴は既にモンゴルに投降していたと主張するが(岩井1932,43頁)、これ以後も蒲鮮万奴が金朝朝廷の命を受けている事実とは整合しないため、受け容れられていない。
  15. ^ 『元史』巻149列伝36耶律留哥伝,「甲戌、金遣使青狗誘以重禄使降、不従。青狗度其勢不可、反臣之。金主怒、復遣宣撫万奴領軍四十餘万攻之。留哥逆戦于帰仁県北河上、金兵大潰、万奴収散卒奔東京。安東同知阿憐懼、遣使求附。於是尽有遼東州郡、遂都咸平、号為中京。金左副元帥移剌都、以兵十万攻留哥、拒戦、敗之」(池内1943,542-543頁)
  16. ^ 周2021,20頁
  17. ^ 『金史』巻103列伝41奥屯襄伝,「[貞祐二年]十一月、詔諭襄及遼東路宣撫使蒲鮮万奴・宣差蒲察五斤曰『上京・遼東、国家重地、以卿等累効忠勤、故委腹心、意其協力尽公、以徇国家之急。及詳来奏、乃大不然、朕将何頼。自今毎事同心、並力備禦、機会一失、悔之何及。且師克在和、善鈞従衆、尚懲前過、以図後功』」
  18. ^ 『金史』巻14宣宗本紀上,「[貞祐二年十一月]癸未、曲赦遼東路。勅罷宣撫司輒擬官」
  19. ^ 池内1943,543頁
  20. ^ 『金史』巻14宣宗本紀上,「[貞祐三年三月]庚午、諭遼東宣撫使蒲鮮万奴選精鋭屯瀋州・広寧、以俟進止」
  21. ^ 池内1943,564頁
  22. ^ 池内1943,567頁
  23. ^ a b c d e f g 『金史』巻103列伝41紇石烈桓端伝,「貞祐三年、蒲鮮万奴取咸平・東京瀋・澄諸州、及猛安謀克人亦多従之者。三月、万奴歩騎九千侵婆速近境、桓端遣都統温蒂罕怕哥輦撃却之。四月、復掠上京城、遣都統兀顔鉢轄拒戦。万奴別遣五千人攻望雲駅、都統奥屯馬和尚撃之。都統夾谷合打破其衆数千於三叉里。五月、都統温蒂罕福寿攻万奴之衆於大寧鎮、抜其塁、其衆殲焉。九月、万奴衆九千人出宜風及湯池、桓端率兵与戦、其衆潰去、因招奄吉斡・都麻渾・賓哥・出台・答愛・顔哥・不灰・活拙・按出・孛徳・烈隣十一猛安復来附、択其丁男補軍、攻城邑之未下者。貞祐四年、桓端遣王汝弼由海道奏事、宣宗嘉其功、桓端遷遼海軍節度使・同知行府事、宣差提控如故。婆速路温甲海世襲猛安・権同知府事温蒂罕哥不靄遷顕徳軍節度使、兼婆速府治中。権判官・前修起居注裴満按帯遷両階、升二等。王汝弼遷四階、升四等。余将士有功者、詔遼東宣撫承制遷賞。是歳、改邳州刺史、充徐州界都提控」(池内1943,565頁)
  24. ^ 井黒2021,160-161頁
  25. ^ 『金史』巻14宣宗本紀上,「[貞祐三年冬十月]壬子……遼東賊蒲鮮万奴僭号、改元天泰」
  26. ^ 『元史』巻1太祖本紀,「[太祖十年]冬十月、金宣撫蒲鮮万奴拠遼東、僭称天王、国号大真、改元天泰」
  27. ^ 池内1943,574頁
  28. ^ 池内1943,574-575頁
  29. ^ 池内1943,576-577頁
  30. ^ a b 『元史』巻1太祖本紀,「[太祖十一年]冬十月、蒲鮮万奴降、以其子帖哥入侍。既而復叛、僭称東夏」
  31. ^ 『元史』巻119列伝6木華黎伝,「[丙子]抜蘇・復・海三州、斬完顔衆家奴。咸平宣撫蒲鮮等率衆十餘万、遁入海島」
  32. ^ 『谷音』,「澮博学醇行、博州刺史迎為師、教授弟子百餘。貞祐中、就拜宣撫遠東、宰相累書、請澮之鎮、澮不応、浮海遯去」(岩井1932,69/72頁より引用)
  33. ^ 岩井1932,72-73頁。また、岩井大慧は明末に毛文龍後金との戦いの中でしばしば椵島に逃れていた史実や、後に遼東状勢を調査した完顔素蘭が蒲鮮万奴は鉄山にいると述べていること(『金史』巻15宣宗本紀中,「[興定二年夏四月]壬子、遣侍御史完顔素蘭・近侍局副使訛可同赴遼東、察訪叛賊万奴事体。行省侯摯督兵復密州。提控朱琛復高密県。癸丑、完顔素蘭請宣諭高麗復開互市、従之」『金史』巻109列伝47完顔素蘭伝,「興定二年四月、以蒲鮮万奴叛、遣素蘭与近侍局副使内族訛可同赴遼東、詔諭之曰『万奴事竟不知果何如、卿等到彼当得其詳、然宜止居鉄山、若復遠去、則朕難得其耗也』。又曰『朕以訛可性頗率易、故特命卿偕行、毎事当詳議之』。素蘭将行、上言曰『臣近請宣諭高麗復開互市事、聞以詔書付行省必蘭出。若令行省就遣諭之、不過隣境領受、恐中間有所不通、使聖恩不達於高麗、高麗亦無由知朝廷本意也。況彼世為藩輔、未嘗闕臣子礼、如遣信使明持恩詔諭之、貸糧・開市二者必有一済。苟倶不従、則其曲在彼、然後別議図之可也』。上是其言、於是遣典客署書表劉丙従行。及還、授翰林待制」)も、蒲鮮万奴が椵島を逃亡先に選んだ傍証になると指摘している(岩井1932,73-74頁)
  34. ^ 『高麗史』巻22高宗世家1,「[高宗四年春正月]甲申、金来遠城移牒寧徳城曰『叛賊万奴、本与契丹同心、若併軍、往侵貴邦、其患不小。且為貴邦所撃、則必奔還我国、苟犯貴邦、宜急報之、我即出軍掩撃』。寧徳城回牒曰『丹兵曾入我疆、屡致摧挫、若万奴継至、恐分我軍力、以致丹寇復振。若侵上国、事在俄頃、未可及報、請預設兵馬、遮阻万奴、使不至於弊邑。弊邑亦堤防丹兵、無使至於上国』」
  35. ^ 岩井1932,73頁
  36. ^ 『高麗史』巻22高宗世家1,「[高宗四年夏四月]己未、金万奴兵来破大夫営。……戊辰、金兵九十餘人渡鴨緑江、入義州。分道将軍丁公寿出兵禦之、有虎頭金牌官人、棄兵跪曰『我元帥虧哥下也、夜与黄旗子軍戦、不克来奔、願将軍活我』」
  37. ^ 『金史』巻103列伝41完顔阿里不孫伝,「興定元年……是時、蒲鮮万奴拠遼東、侵掠婆速之境、高麗畏其強、助糧八万石。上京行省蒲察五斤入朝、遼東兵勢愈弱、五斤留江山守肇州、江山亦頗懐去就」
  38. ^ 『金史』巻15宣宗本紀中,「[興定元年]夏四月己未、以権参知政事遼東路行省完顔阿里不孫為参知政事、行尚書省・元帥府于婆速路。以権遼東路宣撫使蒲察五斤権参知政事、行尚書省・元帥府于上京」
  39. ^ 池内1943,585-586頁
  40. ^ a b c 『金史』巻122列伝60梁持勝伝,「興定初、宣撫使蒲鮮万奴有異志、欲棄咸平徙曷懶路、持勝力止之、万奴怒、杖之八十。持勝走上京、告行省太平。是時、太平已与万奴通謀、口称持勝忠、而心実不然、署持勝左右司員外郎。既而太平受万奴命、焚毀上京宗廟、執元帥承充、奪其軍。持勝与提控咸平治中裴満賽不・万戸韓公恕約、殺太平、復推承充行省事、共伐万奴。事泄,倶被害」(池内1943,584-585頁)
  41. ^ 『金史』巻122列伝60温蒂罕老児伝,「温蒂罕老児、為同知上京留守事。蒲鮮万奴攻上京、其子鉄哥生獲老児、脅之使招餘人、不従。鉄哥怒、乱斫而死」
  42. ^ 『金史』巻130列伝68阿魯真伝,「阿魯真、宗室承充之女、胡里改猛安夾谷胡山之妻。夫亡寡居、有衆千餘。興定元年、承充為上京元帥、上京行省太平執承充応蒲鮮万奴。阿魯真治廃塁、修器械、積芻糧以自守。万奴遣人招之、不従、乃射承充書入城、阿魯真得而砕之、曰『此詐也』。万奴兵急攻之、阿魯真衣男子服、与其子蒲帯督衆力戦、殺数百人、生擒十余人、万奴兵乃解去。後復遣将撃万奴兵、獲其将一人」
  43. ^ 『金史』巻128列伝66紇石烈徳伝,「蒲鮮万奴逼上京、徳与部将劉子元戦却之。遷東京留守、歴保静・武勝軍節度使」
  44. ^ 池内1943,586頁。池内宏は、蒲鮮万奴が豊かな遼東地方を棄てて東方に進んだ理由として、(1)遼東地方では上京地方と高麗国境方面に残存する金朝勢力に挟み撃ちにされる恐れがあること、(2)モンゴルが遼西地方までを平定し、一度服属しながら再び自立した罪を問われる可能性があったこと、の2点を挙げている(池内1943,588頁)
  45. ^ 臼杵2019,216-217頁
  46. ^ 臼杵2019,223-225頁
  47. ^ 中澤2019,234-235頁
  48. ^ 『元史』巻150列伝37耶律阿海伝,「耶律阿海……子三人。長忙古台、次綿思哥、次捏児哥。……捏児哥在太祖時、佩虎符、為右丞、行省遼東。万奴叛、挙家遇害」
  49. ^ 池内1943,593頁
  50. ^ 池内1943,616-617頁
  51. ^ 『高麗史』巻22高宗世家一,「[高宗五年]十二月己亥朔、蒙古元帥哈真及札剌、率兵一万、与東真万奴所遣完顔子淵兵二万、声言討丹賊、攻和・猛・順・徳四城、破之、直指江東城」
  52. ^ 『高麗史』巻103列伝16趙沖伝,「蒙古太祖、遣元帥哈真及札剌、率兵一万、与東真万奴所遣完顔子淵兵二万、声言討契丹賊、攻和・孟・順・徳四城破之、直指江東。会天大雪、餉道不継、賊堅壁以疲之。哈真患之、遣通事趙仲祥、与我徳州進士任慶和、来牒元帥府曰『皇帝以契丹兵逃在爾国、于今三年、未能掃滅故、遣兵討之。爾国惟資糧是助、無致欠闕』。仍請兵、其辞甚厳。且言『帝命、破賊後、約為兄弟』」
  53. ^ 『高麗史』巻23高宗世家2,「[高宗十九年冬十一月]越丙子歳、契丹大挙兵、闌入我境、横行肆暴。至己卯、我大国遣帥河称・札臘、領兵来救、一掃其類。小国以蒙賜不貲、講投拜之礼、遂向天盟告、以万世和好、為約、因請歳進貢賦所便。元帥曰『道路甚梗、你国必難於来往。毎年、我国遣使佐、不過十人、其来也、可齎持以去。至則道必取万奴之地境、你以此為験』」
  54. ^ 『高麗史』巻22高宗世家1,「[高宗十一年春正月]戊申、東真国遣使、齎牒二道来、其一曰『蒙古成吉思師老絶域、不知所存、訛赤忻、貪暴不仁、己絶旧好』。其一曰『本国於青州、貴国於定州、各置榷場、依前買売』」
  55. ^ 『高麗史』巻22高宗世家1,「[高宗十一年]十一月乙亥、蒙古使著古与等十人、至咸新鎮」
  56. ^ 『高麗史』巻22高宗世家1,「[高宗十二年春正月]癸未、蒙古使離西京、渡鴨緑江、但齎国贐獺皮、其餘紬布等物、皆棄野而去、中途為盗所殺。蒙古、反疑我、遂与之絶」
  57. ^ 『高麗史』巻22高宗世家1,「[高宗十二年]八月辛卯、東真兵百餘寇朔州」
  58. ^ 『高麗史』巻22高宗世家1,「[高宗十四年九月]壬午、東界兵馬使奏、東真寇定・長二州。遣右軍兵馬使上将軍趙廉卿、知兵馬事大将軍金升俊、中軍兵馬使枢密院使丁公寿、知兵馬事金良鏡、後軍兵馬使上将軍丁純祐、知兵馬事大将軍金之成、率三軍禦之」
  59. ^ 『高麗史』巻22高宗世家1,「[高宗十五年秋七月]庚子、東北面兵馬使報『東真兵千餘人來屯長平鎮』。議遣三軍、以禦之、尋聞賊退、竟不行」
  60. ^ 『高麗史』巻22高宗世家1,「[高宗十六年二月]壬子、東北面兵馬使報『東真人到咸州、請和』。親遣式目録事盧演、往聴約束」
  61. ^ 『高麗史』巻22高宗世家1,「[高宗十六年]五月甲戌、盧演、還自東北面、時東界赴防将軍金仲温訴演怯懦、不与東真約束。崔瑀怒、囚演于街衢所、以前巨済県令陳龍甲為長平鎮将、約束東真。詔曰『農事方殷、騎陽為沴、良由政刑之失、朕甚懼焉、其二罪以下流配人量移、囚徒并原』。戊寅、東真寇和州、掠牛馬人口、陳龍甲遣人諭之、皆棄去」
  62. ^ 『高麗史』巻22高宗世家1,「[高宗十六年八月]癸亥、東真四十人托言追温迪罕、至和州」
  63. ^ 『金史』巻17哀宗本紀上,「[正大三年六月]壬子、詔諭高麗及遼東行省哥不靄、討反賊万奴、赦脅従者」
  64. ^ ジェブゲについては『金史』に列伝がないが、貞祐4年に桓端の配下にあった「温蒂罕哥不靄」(『金史』巻103列伝41紇石烈桓端伝,「貞祐四年……婆速路温甲海世襲猛安・権同知府事温蒂罕哥不靄遷顕徳軍節度使、兼婆速府治中)、完顔阿里不孫を殺害した胡土を討伐した「温蒂罕哥不靄」(『金史』巻103列伝41完顔阿里不孫伝,「権左都監納坦裕与監軍温蒂罕哥不靄・遙授東平判官参議軍事郭澍謀誅胡土」)と同一人物と見られ、蒲鮮万奴の自立の頃から遼東に残存する金朝の将であった(池内1943,621-622頁)
  65. ^ a b c 『元史』巻149列伝36王珣伝「会金平章政事哥不靄行省於遼東・咸平路宣撫使蒲鮮万奴僭号於開元、遂命栄祖還、副撒礼塔進討之。抜蓋州・宣城等十餘城,哥不靄走死」
  66. ^ 松田1992,102-103頁
  67. ^ 松田1992,100-107頁
  68. ^ a b 『元史』巻120列伝7吾也而伝,「太宗元年、入覲。命与撒里答火児赤征遼東、下之。三年、又与撒里答征高麗、下授開・龍・宣・泰・葭等十餘城。高麗懼、請和」
  69. ^ なお、この年8月にも東夏国は高麗に侵攻している(『高麗史』巻23高宗世家2,「[高宗十八年夏四月]辛巳、東界和州馳報『東真兵寇和州、虜宣徳都領而去』」)
  70. ^ 『高麗史』巻23高宗世家2,「[高宗十八年]冬十月癸丑朔、蒙古二人持牒、至平州、州即囚之以聞。朝議紛紜、或云可殺、或云当問其由。乃遣殿中侍御史金孝印往問、其牒云『我兵初至咸新鎮、迎降者、皆不殺。汝国若不下、我終不返。降則、当向東真去矣』」
  71. ^ 『高麗史』巻23高宗世家2「[高宗十九年十二月]東真書曰……至今年十二月十六日、水州属邑処仁部曲之小城方与対戦射中魁帥撒礼塔殺之。虜亦多餘衆潰散……」
  72. ^ 『元史』巻2太宗本紀,「[太宗五年]二月、幸鉄列都之地。詔諸王議伐万奴、遂命皇子貴由及諸王按赤帯将左翼軍討之」

参考文献[編集]

  • 井黒忍「女真の形成」『金〈女真〉と宋』研文出版、2021年
  • 池内宏「金末の満洲」『満鮮史研究 中世第一冊』荻原星文館、1943年
  • 蓮見節「『集史』左翼軍の構成と木華黎左翼軍の編制問題」『中央大学アジア史研究』第12号、1988年
  • 古松崇志ほか 編集『金・女真の歴史とユーラシア東方』勉誠出版、2019年
    • 趙永軍「金上京の考古学研究」(193-208頁)
    • 臼杵勲「金代の城郭都市」(215-233頁)
    • 中澤寛将「ロシア沿海地方の女真遺跡」(234-240頁)
    • 高橋学而「金代の金属遺物」(276-292頁)
    • 中村和之「元・明時代の女真とアムール河流域」(293-309頁)
  • 松田孝一「モンゴル帝国東部国境の探馬赤軍団」『内陸アジア史研究』第7/8合併号、1992年
  • 箭内亙『蒙古史研究』刀江書院、1930年
  • ドーソン著、佐口透訳『モンゴル帝国史平凡社 / 東洋文庫
  • ラシードゥッディーン『集史』(Jāmiʿ al-Tavārīkh
    • (校訂本) Muḥammad Rawshan & Muṣṭafá Mūsavī, Jāmiʿ al-Tavārīkh, (Tihrān, 1373 [1994 or 1995] )
    • (英訳) Thackston, W. M, Classical writings of the medieval Islamic world v.3, (London, 2012)
    • (中訳) 余大鈞・周建奇訳『史集 第1巻第2分冊』商務印書館、1985年

関連項目[編集]