菅野七郎

かんの しちろう
菅野 七郎
菅野 七郎
1929年の写真、満27歳。
本名
生年月日 (1902-01-01) 1902年1月1日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 福島県相馬郡原町(後の同県原町市、現在の同県南相馬市原町区
身長 163.6cm
職業 俳優
ジャンル 新派劇映画現代劇時代劇サイレント映画
活動期間 1924年 - 1933年
配偶者
主な作品
呪の女
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菅野 七郎(かんの しちろう、1902年1月1日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3]。本名同じ[1][2][3]

来歴・人物[編集]

1902年(明治35年)1月1日福島県相馬郡原町(後の同県原町市、現在の同県南相馬市原町区)に生まれる[1][2][3]

旧制中学校を中退後、満州に渡り各地を放浪していたが、1922年(大正11年)、徴兵のため帰国[1][2][3]。その後、会社員を経て1923年(大正12年)8月、松竹蒲田撮影所に入社[1][2][3]。同年8月18日に公開された島津保次郎監督映画『貫一と満枝』(『寛一と満枝』)で映画初出演[3]。以降、数本の作品に脇役として出演するが、1925年(大正14年)に発行された『日本映画年鑑 大正十三・十四年』(東京朝日新聞)によれば、菅野自身の代表作は1925年(大正14年)2月21日に公開された吉野二郎監督映画『呪の女』であるという[1]。その後、1929年(昭和4年)春にはマキノ・プロダクション御室撮影所に移籍し、数本の作品に出演した[1][2][3]

『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』など、一部の資料によれば、東京府荏原郡蒲田町御園(後の東京府東京市蒲田区御園町東京都大田区御園、現在の東京都大田区新蒲田西蒲田辺り)、後に京都府葛野郡花園村マキノスタジオ内に住み、身長は5尺4寸(約163.6センチメートル)、体重は15貫500匁(約58.1キログラム)、趣味は運動、音楽、読書で、嗜好物は果物、支那料理であるという旨が記されている[2][3]

その後、正確な年月日は不明だが、間もなくマキノプロを退社し、1931年(昭和6年)8月に帝国キネマ演芸から改称された新興キネマ太秦撮影所に移籍[4]。1933年(昭和8年)4月27日に公開された田中重雄監督映画『青島から来た女』に出演して以降の記録が見当たらないが、この頃に芸能界を引退したと思われる[1][2][3]。『ハワイ報知』同11月3日付によれば、その後ハワイ州オアフ島に移住し、同地の女性と結婚したというが、以後の消息は伝えられていない[5]。トーキー作品への出演は1作もなく、出演作品はすべてサイレント映画であった。没年不詳。菅野の来歴について記載されている資料はほとんど存在しない。

出演作品[編集]

松竹蒲田撮影所[編集]

全て製作は「松竹蒲田撮影所」、配給は「松竹」、全てサイレント映画である。

マキノ・プロダクション御室撮影所[編集]

全て製作は「マキノ・プロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、全てサイレント映画である。

新興キネマ[編集]

全て製作・配給は「新興キネマ」、全てサイレント映画である。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 『日本映画年鑑 大正13年・14年』東京朝日新聞発行所、1925年、165頁。 
  2. ^ a b c d e f g h 『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』映画世界社、1928年、46頁。 
  3. ^ a b c d e f g h i 『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』映画世界社、1929年、56頁。 
  4. ^ 『キネマ旬報』1932年4月1日号、キネマ旬報社、165頁。
  5. ^ 『ハワイ報知』1933年11月3日付。

外部リンク[編集]