荻原乗秀

 
荻原乗秀
時代 江戸時代
生誕 不詳[1]
死没 享保20年4月26日1735年6月16日
別名 源八郎
戒名 日到
幕府 江戸幕府 江戸城西丸御納戸頭、佐渡奉行
主君 徳川家
氏族 清和源氏甲斐武田氏支流荻原氏
父母 父:荻原重秀
中山直好の娘、後に村上義愈の娘
秀興
テンプレートを表示

荻原 乗秀(おぎわら のりひで)は、江戸幕府旗本。通称は源八郎。勘定奉行を務めた荻原重秀の子である[2]。妻は中山下野守直好の娘で、村上彦太郎義愈の娘を後妻に迎えている[3]

略歴[編集]

元禄5年(1692年)11月1日に時の将軍・徳川綱吉に御目見を果たす[3]

父・重秀の死後、正徳4年(1714年)3月15日に、重秀の私曲を理由に3000石を減石され越前国坂井郡の内の700石相続が許されたことを、若年寄鳥居忠英により通告される(『柳営日次記』[4])。小普請入りし謹慎の身となるが翌5年(1715年)9月26日に許される[3][5]

享保7年(1722年)5月3日、上総国東金領に赴き、新規に開墾する地を調べる仕事を命じられる。8月7日には御用を務めた褒美として時服2領と黄金2枚を下賜される[3]

享保7年(1722年)7月13日に、南町奉行大岡忠相[6]所属の代官[7]となり、5万石支配を命じられ、同じく大岡支配下の代官・岩手信猶とともに役料300俵ずつを与えられる[8][9]

享保14年(1729年)11月24日、支配所である武蔵国入間郡下奥富村(埼玉県狭山市)の名主の不正が発覚したことにより拝謁を留められるが同年12月27日に許される[3][10]

享保19年(1734年)正月19日、江戸城西丸の御納戸頭に任ぜられる。同年2月15日に佐渡奉行となり、4月22日には布衣の着用を許される[3]。5月26日に佐渡奉行所に到着。もう1人の佐渡奉行・萩原美雅と交代する[5]

享保20年(1735年)4月11日、「左右共不自由」となり、医師の投薬によりいったんは回復するが、18日に再度発病[11]。4月26日、在任中に佐渡の地にて死去。同地の本典寺に葬られる。法名は日到[3]。なお、この年の閏3月1日に、乗秀の妻・かずも死亡している[5]

大岡支配代官[編集]

享保7年(1722年)に、代官の池田喜八郎季隆(すえたか)とともに上総・下総国両国の見分に赴くよう命じられた乗秀は、東金(千葉県東金市)に5万石ほどの荒れ地を発見したため、この地が新田として開墾されることが決まる(『兼山秘策』[12])。

同年5月の東金見分に同行した浪人・小林平六と野村時右衛門は元締手代となり[13]、享保12年(1727年)9月に「新田開発方役人」となり武蔵野新田経営を担当する[14]。同14年(1729年)12月に年貢滞納などを理由に2人は罷免される[8]。2人の罷免を受けて、小林と野村が担当していた武蔵野新田と乗秀・岩手を勘定奉行所属とするか、大岡は老中水野忠之に問い合わせているが、引き続き両名とも大岡支配下とし、新田も2人の支配とする回答されている。この後、乗秀は小林・野村の強引な年貢増徴方針を修正したが、新田経営は十分な安定化は果たせず、年貢未進・遅滞が続いた[15]

享保17年(1732年)6月12日、武蔵国内の2万石の支配地増加を命ぜられる[8][16]

相模国小田原藩酒匂川は、田中喜古による治水事業がなされた後、川の両岸は岩手の支配地となるが、享保17年(1732年)閏5月に岩手が死去した後、荻原乗秀が同地を預かり、さらに大岡配下の蓑正高の支配へと移る[17]

享保19年(1734年)正月に乗秀が西城御納戸頭に転任した後は、同じく大岡支配下の代官上坂政形がその支配地を受け継ぐ。

武蔵野新田の支配代官として、幕府の年貢増徴策に沿って年貢の徴収を行なうが、多摩郡新町村名主吉野家文書によれば、享保12年ごろまでは荻原の新田経営は必ずしも順調にはいかなかったことが知られる[18]

脚注[編集]

  1. ^ 『佐渡国略記』では元禄9年(1696年)生まれとなっているが、村井淳史は『寛政重修諸家譜』・『柳営日次記』とも元禄5年に綱吉に御目見したと記載されているため、これを誤りとしている。同様に『佐渡国略記』で享年40とされているのも間違いだと、村井の『勘定奉行荻原重秀の生涯』には記されている。
  2. ^ 母は「某氏」となっており、重秀の正妻の子ではない。
  3. ^ a b c d e f g 『新訂 寛政重修諸家譜』第十 143頁。
  4. ^ 村井淳志著 『勘定奉行荻原重秀の生涯 新井白石が嫉妬した天才経済官僚』 集英社新書、221頁。
  5. ^ a b c 村井淳志著 『勘定奉行荻原重秀の生涯 新井白石が嫉妬した天才経済官僚』 集英社新書、227-230頁。
  6. ^ 本来は代官は勘定奉行に所属するべき役職であるが、大岡は「関東地方御用掛」を兼帯しており、関東の新田開発や治水事業などの農政も掌っていた。なお、当初は北町奉行の中山時春も地方御用掛を拝命しており乗秀は中山の支配下でもあったが、中山が町奉行を辞した後は地方御用掛は大岡1人の専管となる。
  7. ^ 武蔵国の多摩郡・入間郡・高麗郡新座郡の4郡82ヵ村(現・東京都中部、埼玉県南部)、石高にして1万石以上の地を管掌。
  8. ^ a b c 『撰要類集』。
  9. ^ 大石学著 『大岡忠相』 吉川弘文館、152-152頁。
  10. ^ この一件は、外部の人間により発見されればその罪はさらに重くなっていたが、同じ大岡忠相支配の役人である町奉行所の同心からの告発であったために軽い罪で済んだと『寛政重修諸家譜』に記されている。
  11. ^ 『佐渡国略記』。
  12. ^ 大石学著 『吉宗と享保の改革』 東京堂出版、63-64頁、258-263頁。同『大岡忠相』 吉川弘文館、152-153頁。
  13. ^ 西沢淳男著 『代官の日常生活 江戸の中間管理職』 講談社選書メチエ、70頁。大石学著 『吉宗と享保の改革』 東京堂出版、63-64頁、258-263頁。大石学著 『享保改革の地域政策』 吉川弘文館、219-222頁。渡辺紀彦著『代官川崎平右衛門の事績』、20頁。
  14. ^ 享保7年の見分は、浪人2名が、上総・下総の両国に新田開発が可能な土地があると目安箱に投書したことがきっかけで行われたもので、歴史学者の大石学は小林と野村がこの2人の浪人であるという見解を示している(大石学著 『吉宗と享保の改革』 東京堂出版、63-64頁)。
  15. ^ 大石学著 『大岡忠相』 吉川弘文館、163-167頁。同『享保改革の地域政策』 吉川弘文館、284-291頁。
  16. ^ 大石学著 『享保改革の地域政策』 吉川弘文館、292-294頁。
  17. ^ 大石学著 『大岡忠相』 吉川弘文館、172-176頁。
  18. ^ 大石学著 『享保改革の地域政策』 吉川弘文館、257-272頁。

参考文献[編集]