草鹿砥宣隆

草鹿砥 宣隆
生誕 1818年5月13日
三河国宝飯郡
死没 1869年7月29日(1869-07-29)(51歳)
国籍 日本の旗 日本
職業 国学者神職
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草鹿砥 宣隆(くさかど のぶたか、文化15年4月9日〈新暦 : 1818年5月13日〉 - 明治2年(1869年)6月21日〈新暦 : 1869年7月29日〉)は、江戸時代後期の国学者三河国一宮砥鹿神社宮司。号は杉廼金戸、杉門主人。

人物・生涯[編集]

文化15年(1818年)4月9日、砥鹿神社神主である草鹿砥宣輝(草鹿砥肥前守宣輝、くさかどのぶてる)の嫡子として生まれた。砥鹿神社は三河国一宮である。幼名は孫十郎または勘解由である。

読書を好んだ草鹿砥宣隆は美濃国加納の吉田東堂儒学漢学)を学んだ。三河国には羽田八幡宮の神主として羽田野敬雄がおり、羽田野は平田篤胤門下の国学者であった。羽田野敬雄と親交があった父の草鹿砥宣輝は、文政13年(1830年)に平田篤胤門下に入った。天保5年(1834年)には父とともに江戸を訪れ、宣隆も平田篤胤門下に入った。天保6年(1835年)には従五位下近江守に叙せられた。天保14年(1843年)に平田篤胤が死去すると、天保15年(1844年)には遠江国八木美穂[1]に師事した。

国学者としては読書皇学を教える家塾を開き、慶応4年(1868年)まで続けた。慶応2年(1866年)には自宅の敷地内に一宮文庫を設立した。

慶応4年(1868年)3月には羽田野敬雄らとともに上京し、神威隊の一員として内侍所守衛の任務に就いた。12月には京都皇学所御用掛に任じられ、さらに講官として公家の子弟に学問を教えた。

明治2年(1869年)6月21日、清和院門前の寓居で死去した。享年52歳。

著作は神道や祭祀のほかに、国語学・書道・歴史学・歌学など多岐にわたる。

著作[編集]

  • 1844年 『内裏式詔奏集・延喜式詔奏集』
  • 1846年 『神門賀歌』
  • 1848年 『記紀歌一覧』
  • 1849年 『旋頭歌抄』(せどうかしょう)
  • 1852年 『天文抄』
  • 1852年 『杉之金門長歌集』
  • 1852年 『散隷千字文』
  • 1852年 『説文千字抄』
  • 1852年 『長歌対句類聚』
  • 1857年 『葬祭私説稿』
  • 1857年 『求夷篇・祠堂祭儀』
  • 1862年 『長歌私編聞書』
  • 『祭典略』

脚注[編集]

  1. ^ 八木美穂』 - コトバンク

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]