耿秉

耿 秉(こう へい、? - 91年)は、中国後漢時代初期から中期の軍人。字は伯初。司隷扶風茂陵県の人。雲台二十八将耿弇の弟である耿国の子。子は耿沖。曾孫は耿紀。諡は『後漢書』では桓侯、『後漢紀』では壮侯。後漢代の対外戦争に活躍した。

事跡[編集]

姓名 耿秉
時代 後漢時代
生没年 生年不詳 - 91年永元3年)夏
字・別号 伯初
本貫・出身地等 司隷扶風茂陵県
職官 黄門侍郎〔後漢〕→謁者僕射〔後漢〕

駙馬都尉〔後漢〕→征西将軍〔後漢〕
度遼将軍〔後漢〕→執金吾〔後漢〕
征西将軍〔後漢〕→光禄勲〔後漢〕

爵位・号等 美陽桓侯(『後漢紀』では美陽壮侯)
陣営・所属等 後漢
家族・一族 父:耿国 弟:耿夔 子:耿沖

はじめは父の縁故で郎に任じられ、軍事について様々な上申をしていた。軍事費は常に中国の予算を圧迫し、国境が安んじられる事は無かったが、その外患は主に匈奴にあった。戦をもって戦をなくすことは、盛時の王の道であり、彼の主君である明帝は既にその意志を隠然と持っていた。

明帝期[編集]

永平中、召されて天子に拝謁し、前後の便宜方略を問われて、謁者僕射となり、ついに親しく寵愛されるに至った。公卿の会議があると、常に上殿に引き立てられ、辺境の事について問われたが、その答えは多く帝の心に適うものだった[1][2]

永平15年(72年)、駙馬都尉となった。永平16年(73年)、騎都尉秦彭を副将とし、奉車都尉竇固とともに北匈奴討伐の軍を起こしたが、北匈奴は皆逃げてしまい、戦わずして帰還した[3]

車師王国の制圧[編集]

永平17年(74年)夏、詔が下されて竇固と兵を合わせて一万四千騎とし、また白山を出て車師を撃った。車師には後王と前王があり、前王は即ち後王の子で、その本拠[4]は互いに五百余里の距離にあった。竇固は後王の本拠は道遠くして山谷深く、士卒が寒さに苦しむため、前王を攻めようと考えていた。耿秉は「先に後王に赴いて根本から力をあわせれば、前王はすぐにでも降ると思われます」と建議したが、竇固は計を未だ決められなかった。

耿秉は身を奮い立たせて「先行することを請う」と言い放ち、すぐさま馬に上り、兵を引いて北から入った。他の軍も皆やむを得ずついに進み、ならびに兵に略奪を許し、数千の首を斬り、数十の牛馬を手に入れた。後王の安は恐怖に震え、数百騎を従えて耿秉を出迎えた。

しかし、竇固の司馬の蘇安が全ての功が竇固の物になることを望んで、すぐに馳せて安に貴い外戚である竇固に降るべきだと勧めると、安はすぐに戻り、更に諸将に耿秉を出迎えさせた。耿秉は大いに怒り、鎧を纏って馬に上り、精鋭騎兵をしたがえて小道を行き、竇固の砦に向かって「車師後王は降ったが、嘘をつくばかりで今(陣に)至らず。行ってさらし首とすることを請わん」と宣言する。

竇固は大いに驚いて制止したが、耿秉ははげしく声をあげて「降伏を受けるということは、敵を受けることを言うのだ」と言うと、ついに馳せて車師王のもとへ向かった。安は恐慌状態になり、走って門から出てきて、脱帽して小走りで馬の足を抱えながら降った。耿秉は安を引き連れて竇固の元に戻ると、前王もまた帰順し、遂に車師を制圧して帰還した。

国軍の重鎮として[編集]

永平18年(75年)秋、章帝が即位すると耿秉は征西将軍となり、涼州辺境の状況を案じて派遣され、塞[5]を羌胡[6]から保った事に労いを賜り、進んで酒泉に駐屯し、戊己校尉を救った。

建初元年(76年)、度遼将軍となった。七年間勤め上げて、匈奴はその恩信に懐いた。徴されて執金吾となり、皇帝に甚だ重視された。皇帝が郡国を巡り宮観に行幸する毎に、耿秉は常に禁兵や宿衛の左右を領した。三子が郎に除された。

永元元年(89年)6月、戦争に先立ち、また征西将軍となった。車騎将軍竇憲の副将となり、漢と南匈奴の総力を動員して北匈奴を稽落山で撃ち、これを大いに破り、莫大な戦果を得た。竇憲と耿秉は遂に燕然山に登り、塞を去ること三千余里のところに記念の石碑を建て、班固に銘文を作らせて刻んだ。耿秉は彰侯に封じられ、永元2年(90年)にさらに美陽侯に封じられて邑三千戸を食み、これは竇憲の冠軍侯と同封だった。

永元2年(90年)、桓虞に代わって光禄勲になった。永元3年(91年)夏、五十余歳の時に亡くなった。その葬儀においては、朝廷より朱棺・玉衣を賜り、将作大匠が塚を作り、鼓吹[7]を貸し与えられ、五営の騎士、三百余人が葬列に参加した。

子孫[編集]

長男の耿沖が封国を継いだ。竇憲がクーデターに敗れた際、耿沖は耿秉がその与党であったことに連座し、封国を除かれた。官位は最高の時で漢陽太守に上った。

曾孫の耿紀は若くして美名があり、公府に召され、曹操から甚だ優れているとして敬意を受けたが、漢に殉じて吉本の乱に参加し、夷三族[8]を受けた。

人柄・評価[編集]

威厳ある体つきをしており、腰まわりは八囲(40寸=95cm)ほどもあった。学問に博く通じていて、特に『司馬法』を良く説き、将帥の戦略を好んだ。

耿秉は性格が勇壮でありながら穏健で物事にあっさりとしていて、軍では常に自ら鎧を纏って先頭に有り、休むときは陣屋を構えず、しかし遠くまで斥候し、伏兵を戒めて防備を固め、軍紀を作るとそれを口頭で説明し、士卒は皆よろこんで死んだ。

南匈奴の単于が耿秉の死を聞くと、国を挙げて喪を発して号泣し、また叩頭して顔面から流血したという。

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 王先謙『後漢書集解』が引くところの後漢紀より、永平13年(70年)、匈奴が頻繁に辺塞を犯していたことについての上言から。「中国は予算を浪費し、辺境に安まる日はありません。その患は専ら匈奴にあり、戦をもって戦を去らしむことは許されるでしょう。故に君は怒りを以て帥を起こすべきではなく、将は恨みを以て合戦すべきではありません。これを破るは仁義を以て国の宝とせんがためです。」
  2. ^ 王先謙『後漢書集解』の沈欽韓が袁宏『後漢紀』を引いて上奏を載せている。「耿秉の議によると「孝武の時に匈奴の事を始め、匈奴を味方に付け、ならびに左襟に所属させ、手に入れずに命令しました。漢は既に河西四郡、及び居延朔方を得て民を徙し、以てこれにあてましたが、拠点が固まらないうちに匈奴は何度も攻めてきました。その後、は分離し、四郡は堅固で、居延朔方は脅かす事が難しく、賊は遂にその肥饒な蓄兵の地を失いました。これはただ西域があるだけで、俄にまた呼韓邪単于は服属してきて、塞を借りたいと請うた故であり、その勢いによって平定しました。今の単于は、形勢が似ています。しかし、未だなお西域は服属しておらず、北の賊にも未だ罪があります。私が愚考いたしますに、先に白山を撃ち、伊吾車師を得て、烏孫諸国と通じ、以てその右の背中を断つべきであり、先に匈奴を討つべきではありません。伊吾にはまた呼衍の一部が居りますので、此を破り、また其の左角を折ったこととします。観察して後に、漢兵は、五単于が争い、匈奴が即ち乱れているところに出れば、必ずしも五将を以てせずとも良くなる事でしょう。今は先に白山を撃って、その変化を見てから匈奴を撃ってもおそくはありません。」案ずるに其の後、竇固が呼衍を撃って白山で破ったが、全ては耿秉の計の通りであった。」
  3. ^ 王先謙『後漢書集解』によると、耿秉は張掖居延塞を出て、匈林王を撃ち、沐楼山に到る。六百里の砂漠を渡ったが、水も草も絶えて既に無く、途上で得た奴隷に話を聞くと、奴隷は「匈林王は水や草を追って北に転じました」といった。耿秉は軽騎兵を率いてこれを追おうとしたが、騎都尉秦彭に止められて帰還した。
  4. ^ 本文「廷」
  5. ^ 「とりで」、長城などの辺境の防衛施設のこと。
  6. ^ 主に匈奴や羌といった北西の他民族全般を指す。
  7. ^ 軍楽を奏する官のこと。
  8. ^ 三族皆殺しのこと。