紺田敏正

紺田 敏正
北海道日本ハムファイターズ 
ファーム外野守備走塁コーチ #76
日本ハム・コーチ時代(2013年)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 富山県砺波市平成町[1]
生年月日 (1980-08-12) 1980年8月12日(43歳)
身長
体重
183 cm
77 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手
プロ入り 2002年 ドラフト6巡目
初出場 2003年9月30日
最終出場 2011年6月5日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 北海道日本ハムファイターズ (2013 - )

紺田 敏正(こんた としまさ、1980年8月12日 - )は、富山県砺波市出身の元プロ野球選手外野手、右投左打)、コーチ。現在は北海道日本ハムファイターズのファーム外野守備走塁コーチを務めている。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

小学2年の時に野球を始める[1]。右投げ右打ちであったが、高校に入る前に左打ちに変更、高岡商時代は外野手で、2年秋に県大会優勝したが北信越大会は初戦敗退。プロバスケットボール選手の野尻晴一は同級生だった。東都大学野球連盟国士舘大学時代に3年秋に東都二部リーグ首位打者に輝き[1]、持ち前の俊足と強肩から「二部のイチロー」と称された。4年時は主将。

2002年のドラフト会議日本ハムファイターズから6巡目指名を受けて入団[1]

第1次日本ハム時代[編集]

プロ1年目の2003年には二軍で打率3割、14盗塁を記録し、一軍でもプロ初打席初安打となる三塁打を大阪近鉄バファローズ岩隈久志から記録した。

それ以降2年間はケガなどで伸び悩み一軍出場はなかったが、2006年に開幕一軍入り。すぐに二軍落ちしたが、同じ外野手の稲葉篤紀坪井智哉が8月5日・6日に相次いで故障したことから再昇格のチャンスを得る。主に代走としての起用だったが、この年初先発出場の8月13日の千葉ロッテマリーンズ戦(札幌ドーム)で先発の渡辺俊介からプロ初打点を挙げた。以後も渡辺との対戦時に高打率を誇り、小田智之と共に「俊介キラー」と呼ばれるようになった(この年21試合出場、うち4試合のスタメンのうち3試合が対渡辺戦。渡辺との通算対戦成績は23打数10安打、打率.435と相性が良く、また一軍での通算本塁打2本のうち1本は渡辺から打ったものである)。同年秋のアジアシリーズでは、出場を辞退した現役を引退する予定のSHINJOに代わり、3試合に左翼手として先発出場した(その年に主に左翼手を務めていた森本稀哲が、SHINJOが務めた中堅手に回る)。

2007年飯山裕志と共に代走及び守備固めとして試合終盤を任され、94試合に出場(うち先発出場は6試合)。リリーフ捕手の中嶋聡を含めたスーパーサブトリオとしてトレイ・ヒルマン野球の一端を担った。4度の代打機会で3安打を打つ勝負強さも見せた。

2008年は森本の離脱時に先発出場が増えたが、シーズン終盤に足を痛めたことで打撃面では低迷した。しかし代走としては前年に続きここぞという場面で起用され、チームを何度も救った。

2010年11月9日、ウィルフィン・オビスポとのトレードで、須永英輝とともに読売ジャイアンツへ移籍した。背番号は44

巨人時代[編集]

巨人時代

2011年シーズンは開幕から一軍に登録され[2]、打撃面でも好調さを見せたものの、右肩を痛めた影響から4月26日に橋本到と代わって登録を抹消[3]。5月14日には故障の小笠原道大が抹消されたことで一軍昇格するも[4]、6月10日に再び抹消された[5]。一軍出場は2006年と同じくわずか21試合に留まり、以後は故障もあり二軍戦の出場も減少。同年11月15日に戦力外通告を受けた[6]

その後、12球団合同トライアウトを受験し、11月27日に北海道日本ハムファイターズへの復帰が決まった。背番号は67

第2次日本ハム時代[編集]

日本ハム時代

再起をかけて、2011年12月5日に右肩腱板部のクリーニング手術を受けるが[7]完全には回復せず、一軍出場が無いままシーズンを終えた。その後、現役引退と日本ハムの二軍外野守備走塁コーチ就任を発表した[8]

現役引退後[編集]

2014年7月1日より大塚光二に代わって日本ハム一軍外野守備走塁コーチを担当[9]2016年からは再び二軍外野守備走塁コーチを、2022年は再び一軍外野守備走塁コーチを務めた[10]2023年からは再び二軍外野守備走塁コーチを務めている。

選手としての特徴・人物[編集]

50メートル5秒9、遠投120メートルという強肩と俊足を生かした守備範囲の広さには定評があった[11]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
2003 日本ハム 2 5 5 1 2 0 1 0 4 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .400 .400 .800 1.200
2006 21 20 19 4 5 2 0 0 7 1 1 1 0 0 1 0 0 5 0 .263 .300 .368 .668
2007 94 59 57 14 14 2 1 0 18 5 7 1 1 0 1 0 0 17 0 .246 .259 .316 .574
2008 89 160 140 32 33 4 1 1 42 6 14 4 10 0 9 0 1 40 0 .236 .287 .300 .587
2009 56 75 65 11 15 2 1 0 19 4 2 1 5 1 4 1 0 22 0 .231 .271 .292 .564
2010 55 76 66 13 17 4 0 1 24 5 6 2 2 1 7 0 0 18 1 .258 .324 .364 .688
2011 巨人 21 40 38 3 11 1 0 0 12 1 1 2 0 0 2 0 0 6 0 .289 .325 .316 .641
通算:7年 338 435 390 78 97 15 4 2 126 22 31 11 18 2 24 1 1 109 1 .249 .293 .323 .616

記録[編集]

初記録

背番号[編集]

  • 52(2003年 - 2010年)
  • 44(2011年)
  • 67(2012年)
  • 76(2013年 - )

脚注[編集]

  1. ^ a b c d プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、232ページ
  2. ^ 2011年 プロ野球 ― スポニチ Sponichi Annex 野球”. スポニチアネックス (2011年4月10日). 2013年4月22日閲覧。
  3. ^ 4月26日 ― スポニチ Sponichi Annex 野球 2011年4月公示”. スポニチアネックス (2011年4月26日). 2013年4月22日閲覧。
  4. ^ 5月14日 ― スポニチ Sponichi Annex 野球 2011年5月公示”. スポニチアネックス (2011年5月14日). 2013年4月22日閲覧。
  5. ^ 6月10日 ― スポニチ Sponichi Annex 野球 2011年6月公示”. スポニチアネックス (2011年6月10日). 2013年4月22日閲覧。
  6. ^ 【巨人】マイケルら4選手戦力外 - 日刊スポーツ 2011年11月15日閲覧
  7. ^ 【日本ハム】紺田右肩手術「来季全力で」 - 日刊スポーツ(2011年12月5日)
  8. ^ ハム紺田現役引退 外野守備走塁コーチに - 日刊スポーツ(2012年11月4日)
  9. ^ コーチ担当変更のお知らせHokkaido Nippon-Ham Fighters 2016年9月16日閲覧
  10. ^ “新庄剛志ビッグボス 来季首脳陣発表!林ヘッド、武田投手コーチら”. 日刊スポーツ. (2021年11月18日). https://www.nikkansports.com/m/baseball/news/202111180000399_m.html 2021年11月18日閲覧。 
  11. ^ 『2003 プロ野球選手カラー名鑑』日刊スポーツ出版社、2003年、176頁。ISBN 4-8172-5172-7 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]