紀元前192年

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紀元前192年
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紀元前192年(きげんぜん192ねん)は、ローマ暦の年である。ローマ建国紀元562年、ルキウス・クィンクティウス・フラミニヌスグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス執政官の年[1]

他の紀年法[編集]

できごと[編集]

共和政ローマ[編集]

ギリシア[編集]

  • ナビス戦争
    • スパルタ僭主ナビスは失った領土を取り戻すために動き出した。
    • ローマ軍が到着するのを待たずにフィロポイメーンの指揮するアカイア同盟の陸海軍はギュティオンに侵攻した。アカイア同盟軍はスパルタ軍に敗北し、フィロポイメンはTegeaに撤退した。
    • フィロポイメーンが2度目にラコニアに入ると、彼の軍はスパルタの奇襲を受けた。しかしフィロポイメーンはなんとか勝利を収めた。
    • フィロポイメーンのスパルタ占領計画は、ローマの大使フラミニウスの要請によって保留された。その見返りとして、ナビスは現状を維持することを決断した。
    • ナビスはアイトリア同盟に助けを求め、アイトリア同盟は1000の騎馬隊をスパルタに派遣した。
    • ナビスがアイトリアの将軍に暗殺され、スパルタはアイトリアに一時占拠され、宮殿を強奪され、市街も略奪された。しかし、スパルタ市民は反撃し、アイトリア軍を街から追い出した
    • フィロポイメーンはアイトリアの謀反を活かし、アカイア同盟軍とともにスパルタに侵入した。スパルタの支配権を得ると、フィロポイメーンはスパルタをアカイア同盟に加盟させた。
  • アンティオコスに率いられたセレウコス朝の軍は、ローマに反抗したアイトリア同盟の導きでギリシアに侵攻した。アエトリア同盟はアンティオコスを指揮官に指名した。アンティオコスはわずか10500人を率いてテッサリアに上陸し、エウボイア島を占拠した。

誕生[編集]

死去[編集]

  • ナビス:スパルタの僭主(* 誕生年は不詳)

脚注[編集]

注釈

出典

  1. ^ a b c MRR1, p. 350.
  2. ^ a b c MRR1, p. 351.
  3. ^ MRR1, p. 348.

参考文献[編集]

  • T. R. S. Broughton (1951). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association 

関連項目[編集]