第二十二号海防艦

第二十二号海防艦
公試中の第二十二号海防艦 (1944年3月、長崎沖)
公試中の第二十二号海防艦
(1944年3月、長崎沖)
基本情報
建造所 三菱重工業長崎造船所
運用者  大日本帝国海軍
第二復員省/復員庁
艦種 海防艦(1943年12月)
掃海艦(1945年12月)
海防艦(1946年7月)
特別輸送艦(1946年8月)
級名 第二号型海防艦
建造費 5,363,000円(予算成立時の価格)
艦歴
計画 マル戦計画
起工 1943年11月1日
進水 1944年1月27日
竣工 1944年3月24日
最期 1947年12月31日解体終了
除籍 1945年11月30日(日本海軍)
1946年7月1日(復員庁)
1947年9月5日(復員庁)
改名 第二十二号海防艦(1943年12月)
海第二十二号(1945年12月)
第二十二号海防艦(1946年7月)
海第二十二号(1946年8月)
要目(竣工時)
基準排水量 740トン
全長 69.50m
最大幅 8.60m
吃水 3.05m
機関 艦本式甲25型1段減速式オールギヤード蒸気タービン1基
ボイラー 艦本式ホ号空気予熱器付重油専焼水管缶2基
推進 1軸
出力 2,500shp
速力 17.5ノット
燃料 重油240トン
航続距離 14ノットで4,500カイリ
乗員 定員141名[注釈 1]
兵装 45口径12cm高角砲 単装2基
25mm機銃 3連装2基
三式爆雷投射機12基
爆雷120個
搭載艇 短艇3隻
レーダー 22号電探1基
ソナー 九三式水中聴音機1基
九三式水中探信儀1基
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第二十二号海防艦[注釈 2](だいにじゅうにごうかいぼうかん)は、日本海軍の海防艦第二号型海防艦(丁型)の11番艦。太平洋戦争を生き延び、戦後は掃海に従事した。

艦歴[編集]

計画-竣工-練成[編集]

マル戦計画の海防艦丁、第2701号艦型の11番艦、仮称艦名第2711号艦として計画。1943年11月1日、三菱重工業長崎造船所で建造番号956番船[1]として仮称艦名第2709号艦同第2710号艦同第2712号艦と同時に起工。12月22日、第二十二号海防艦と命名されて第二号型海防艦の11番艦に定められ、本籍を舞鶴鎮守府と仮定。

1944年1月27日、第24号海防艦と同日に進水。2月7日、艤装員事務所が長崎海軍監督官事務所内で事務を開始。3月24日竣工し、艤装員事務所を撤去。本籍を舞鶴鎮守府に、役務を舞鶴鎮守府警備海防艦にそれぞれ定められ、呉防備戦隊に編入。基礎実力練成教育に従事。

1944年4月-7月 連合艦隊[編集]

1944年4月20日、連合艦隊附属に編入。28日、東松七号船団(15隻)を護衛して東京発。

5月2日、船団から分離した海軍徴傭船臺東丸を父島まで護衛したのち、船団に追及。6日、船団とともにサイパン着。7日、元東松七号船団の特設運送船辰春丸、同沖縄丸ほか計4隻を護衛してサイパン発。8日、グアム着。12日、海軍徴傭船神島丸、同第一日正丸を護衛してグアム発。14日、メレヨン着。16日、引き続き2隻を護衛してサイパンへ向けメレヨン発。19日、サイパン着。20日、第127号特設輸送艦を護衛してサイパン発。テニアン、グアム、ヤップパラオを経由し、6月1日ダバオ着。

6月1日現在、軍隊区分第一補給部隊に配置。5日までダバオで警戒艦として行動。7日、パラオへ向けダバオ発。パラオで待機していた特務艦洲埼を護衛してタラカンへ向かう。11日から洲埼、鶴見らを護衛してビサヤ諸島を巡航。14日、軍隊区分第三補給部隊に配置。23日、内地への帰還命令が出たため、第三補給部隊各船はギマラスで重油と軽質油を同地の雄鳳丸船団から移載し、7月3日佐世保着。

7月6日、第一海上護衛隊に協力しモマ02船団(15隻)を護衛して門司発。13日、中継地の高雄に入港。14日、タマ21C船団(20隻)を護衛してマニラへ向け高雄発。19日、マニラ着。28日、特設運送船國洋丸を護衛してマニラ発。30日、國洋丸が被雷沈没したため、対潜掃蕩を実施し遭難者を救助後にマニラへ反転した。

1944年8月-9月 第三十一戦隊[編集]

1944年8月7日、ミ11船団(マニラ出港時9隻)の護衛に協力することとなり、同船団を護衛してマニラ発。12日、ミリ着。その後マニラへ回航[注釈 3]。20日、連合艦隊第三十一戦隊に編入。23日、ダソル湾に退避したタマ24A船団の二洋丸(浅野物産、10,022トン)の救援のために、第三南遣艦隊の命で第102号哨戒艇とともにマニラから差し向けられた。2隻は8月23日18時前にマニラを出港したが、第22号海防艦は当時修理中であった[2]。第102号哨戒艇も当時缶管の故障に悩まされており、8月23日も応急修理を実施していた[3]。第22号海防艦と第102号哨戒艇はダソル湾口に到着後対潜警戒を実施していたが、夜が明けてから第102号哨戒艇が二洋丸を誘導するために湾内に入っていき、第22号海防艦は湾口において単艦で警戒を続けた[2]。24日0647、第22号海防艦はソナーで探査中、水測室から「艦橋、敵潜探知、右艦首二〇度、感度三」と報告があり、同時にその方向にアメリカ潜水艦ハーダーの潜望鏡を発見した[2]。第22号海防艦は「戦闘爆雷戦、前進強速急ゲ」と下令しハーダーの潜望鏡に艦首を向けて速力を上げた[2]。ハーダーは向首する第22号海防艦目がけ魚雷を3本発射。第22号海防艦は命中を覚悟したが、魚雷は右に1本、左に2本と進んできたものの、いずれも第22号海防艦をかすめ去った[4]。第22号海防艦は0728に潜望鏡が見えていた辺りの直上から爆雷を投射器から12個、軌条から3個投下した。ハーダーはこの攻撃で撃沈された。やがて攻撃地点から多量の噴煙や重油、コルク片が出てきた[4]。この一連の対潜戦闘の間、第102号哨戒艇は二洋丸を誘導し、ダソル湾を出てマニラに向けて航行を開始しており、やがて戦闘を終えた第22号海防艦が合流して二洋丸の右舷側に張り付き、3隻は8月24日夕方に無事マニラに帰投した[4]。27日、マモ02船団(4隻)を護衛して内地へ向けマニラ発。30日、中継地の高雄に入港。31日、引き続きマモ02船団を護衛して高雄発。五島列島沖でマモ02船団から分離して佐世保へ回航。

9月4日から佐世保海軍工廠で訓令工事を行う。工事終了後は第三十一戦隊の僚艦と訓練に従事。

1944年10月 連合艦隊作戦指揮下[編集]

1944年10月17日、第一海上護衛隊作戦指揮下に編入。18日、佐世保から徳山に回航。19日、連合艦隊作戦指揮下に編入。軍隊区分第一機動主力部隊に配置。21日、第29号海防艦第33号海防艦と共にたかね丸(日本海運、10,021トン)を護衛して奄美大島へ向け徳山発。25日、奄美大島古仁屋着。28日、内地へ向け古仁屋発。30日、たかね丸がウルフパック[注釈 4]の攻撃により被雷し、大破放棄された。第22号海防艦は現場でたかね丸乗員を収容中、北緯30度25分 東経133度00分 / 北緯30.417度 東経133.000度 / 30.417; 133.000の地点[5]で艦首方向に浮上潜水艦、すなわち爆雷戦で損傷し浮上したサーモンを発見し、他の護衛艦に報告しつつ全速で追いかけた。第22号海防艦は慎重に、状況を判断するまで短時間距離を維持した。第22号海防艦からの報を受けて、第33号海防艦も助太刀で向かいつつあった。そして、一時の雨の中、反転したサーモンと第22号海防艦は500メートルもない至近距離で派手な砲撃戦、銃撃戦を展開。第22号海防艦とサーモンの距離は一時50メートルにまで縮まった。第22号海防艦の方が乾舷が高いので、よく被弾した。また、サーモンの20ミリ機銃と小口径機銃の射撃で第22号海防艦の乗員4名が戦死し[注釈 5]、24名が負傷した。艦橋部分も激しく被弾し、指揮系統は大いに乱れた。この時になって第33号海防艦が追いつき、挟撃態勢に持ち込んだ。サーモンは第33号海防艦にも砲撃を行いつつ友軍潜水艦に対して戦闘位置を連絡し、スコールを利用して燃料を流しつつ戦場を離脱した。第22号海防艦は艦首が大きく沈み、排水作業を行いつつ11月1日にに帰投[6]。右舷側にはサーモンとの激戦の痕を示す無数の弾痕が残された。大破したサーモンもまた逃げ切り、一緒に行動していた米潜スターレット、トリガーと、シルバーサイズ の護衛によりグアムに後退。後にハワイを経由してアメリカ本土に帰還した。サーモンはポーツマスで修理を行ったが、二度と前線に出ることが無かった。また、放棄されたたかね丸は米潜スターレットの攻撃で沈没した。

1944年11月-1945年5月 佐世保鎮守府作戦指揮下[編集]

1944年11月1日、呉に帰投した第22号海防艦は呉海軍工廠で入渠修理を行う。同日佐世保鎮守府作戦指揮下に編入。軍隊区分機雷部隊に配置。修理終了後の19日、鎮海へ回航。第十八戦隊による黄海での機雷敷設を警戒。

12月18日、雲龍の前路掃蕩を実施。21日、軍隊区分臨時特別S部隊第一掃蕩隊に配置。対馬沖で対潜掃蕩に従事。29日、佐世保に入港。臨時特別S部隊第一掃蕩隊から除かれ、軍隊区分機雷部隊に復帰。

1945年1月1日、機雷部隊の隊内区分警戒隊に配置。1月18日、南西諸島緊急輸送に従事。第二輸送部隊として特設砲艦長白山丸を第58号駆潜艇と護衛して石垣島へ向け佐世保発。28日、石垣島着。29日、第二輸送部隊は物資積み込みのため基隆へ向け石垣島発。30日、基隆着。

2月2日、砂糖アルコールを積載し、タモ40船団を護衛して内地へ向け基隆発。途中泗礁山を経由して、12日門司着。2月下旬、第十八戦隊による大隅諸島機雷礁の構築を警戒。

3月5日、奄美大島に対する緊急物件輸送のため第十八戦隊の諸艦と佐世保発。12日、佐世保沖で第十八戦隊から分離し、男女群島沖の対潜掃蕩に従事。13日佐世保に帰投。20日、機雷部隊から除かれて佐鎮護衛部隊に配置。同日、サイ05船団を護衛して富江発。28日、佐世保に帰投。

4月15日、佐世保で第十八戦隊と合同。22日、第十八戦隊司令官の将旗を常磐から本艦に移揚。作業地に向け佐世保を出撃。23日、伊万里湾で第十八戦隊司令官の将旗を本艦から済州へ移揚。同日作業地へ向け伊万里湾を出撃。25日、第三十一海防隊に編入。本艦は第十八戦隊の護衛を継続。26日、伊万里湾で第十八戦隊司令官の将旗を済州から本艦に移揚。

5月8日、八幡浜で第十八戦隊司令官の将旗を本艦から常磐へ復帰。9日、佐伯へ回航。15日、佐世保海軍工廠で修理を行う。5月下旬、対馬海峡東水道機雷礁の構築を警戒。

1945年6月以降 第三十一海防隊[編集]

1945年6月1日、名護屋湾を出港して機雷部隊主隊の機雷敷設を警戒。敷設作業終了後は、常磐を第29号海防艦とともに護衛して舞鶴へ回航。3日、舞鶴に入港。同日第十八戦隊解隊。本艦は佐鎮護衛部隊から除かれ、第三十一海防隊に復帰。同日第三十一海防隊は、軍隊区分鮮南方面護衛部隊に配置。11日、舞鶴海軍工廠に入渠。同日、第三十一海防隊は軍隊区分直率護衛部隊に配置。14日、第三十一海防隊は軍隊区分護衛部隊に配置。15日、奄美、本艦、第26号海防艦の3隻で第二掃蕩隊を編成。16日出渠。21日、第二掃蕩隊(奄美欠)は舞鶴を出撃し、七尾湾で対潜掃蕩に従事。23日、第九〇一海軍航空隊機の誘導を受けて、禄剛崎沖で探知したスクリュー音の目標に対して爆雷戦を実施。以後能登半島周辺海域の船団護衛、対潜掃蕩に従事。

戦後 掃海[編集]

終戦時は七尾に所在。1945年8月25日、舞鶴鎮守府第一予備海防艦に定められる。戦後は掃海に従事。11月30日、海軍省の廃止に伴い除籍。

12月1日、第二復員省の開庁に伴い、佐世保地方復員局所管の掃海艦に定められる。20日、艦名を海第二十二号と呼称[注釈 6]

1946年7月1日、掃海艦の定めを解かれる。8月1日、佐世保地方復員局所管の特別輸送艦に定められる。同日付で特別保管艦に指定され、佐世保特別保管艦艇第八保管群に配される。

1947年9月5日、海第二十二号は特別輸送艦の定めを解かれ、アメリカに対する第三次賠償艦として佐世保でアメリカに引き渡された。10月20日から佐世保船舶工業で解体を開始し、12月31日に解体を終了した。

第二十二号海防艦長/海第二十二号艦長[編集]

艤装員長
  1. (兼)一ノ瀬志朗 大尉:1944年1月30日 - 1944年2月29日(本職:第十号海防艦艤装員長)
  2. (兼)一ノ瀬志朗 大尉:1944年2月29日 - 1944年3月10日(本職:第十号海防艦長)
  3. 羽場良 大尉:1944年3月10日 - 1944年3月24日
海防艦長/艦長
  1. 羽場良 大尉/少佐:海防艦長 1944年3月24日 - 1945年6月30日
  2. 石田康雄 大尉/少佐/第二復員官/第二復員事務官:1945年6月30日 - 艦長 1945年12月20日 - 1946年4月20日
  3. 川本昇 第二復員事務官/復員事務官:1946年4月20日 - 1946年7月1日[注釈 7]
  4. 河島義夫 復員事務官:1946年10月8日 - 1946年10月24日
  5. 池上巖 復員事務官:1946年10月24日 - 1947年9月5日[注釈 7]

脚注[編集]

注釈
  1. ^ この数字は特修兵を含まない。
  2. ^ 本来の艦名表記は第二十二號海防艦(1945年12月20日から1946年6月30日までの間と、1946年8月1日以降は海第二十二號)。
  3. ^ 海防艦顕彰会『海防艦戦記』p. 746ではミ14船団の護衛とあるが、ミ14船団のミリ出港は8月29日である。
  4. ^ サーモン、スターレットトリガーの3隻
  5. ^ うち1名は呉帰投後に戦傷死(#海防艦戦記p.751)
  6. ^ 正確な艦名表記は「海第二十二號」
  7. ^ a b 昭和21年7月1日付 復二第67号の定めによる自動解職。
脚注
  1. ^ 『三菱長崎造船所史 続篇』 主要製品目録 p. 86。
  2. ^ a b c d #海防艦戦記p.748
  3. ^ #田村p.144
  4. ^ a b c #海防艦戦記p.749
  5. ^ #海防艦戦記p.747
  6. ^ #海防艦戦記p.750

参考文献[編集]

  • 海軍省
    • 昭和18年12月22日付 達第319号、内令第2776号、内令第2778号、内令第2780号。
    • 昭和19年3月24日付 内令第471号。
    • 昭和20年4月25日付 内令第356号。
    • 昭和20年8月25日付 内令第747号。
    • 昭和19年1月31日付 海軍辞令公報(部内限)第1309号。
    • 昭和19年2月29日付 海軍辞令公報(部内限)第1349号。
    • 昭和19年3月10日付 海軍辞令公報(部内限)第1365号。
    • 昭和19年3月27日付 海軍辞令公報(部内限)第1392号。
    • 昭和20年7月11日付 秘海軍辞令公報 甲 第1853号。
    • 昭和19年2月17日付 海軍公報(部内限)第4618号。
    • 昭和19年2月19日付 海軍公報(部内限)第4620号。
    • 昭和19年3月29日付 海軍公報(部内限)第4652号。
    • 舞鶴鎮守府戦時日誌。
    • 呉防備戦隊戦時日誌。
    • 第一海上護衛隊戦時日誌。
    • 第一護衛艦隊戦時日誌。
    • 海上護衛総司令部戦時日誌。
    • 第一補給部隊戦闘報告。
    • 第百二号哨戒艇戦時日誌。
    • 第三十一戦隊戦時日誌。
    • 第十八戦隊戦時日誌。
    • 軍艦常磐戦時日誌。
    • 特設敷設艦高榮丸戦時日誌。
    • 昭和20年1月10日付 特設敷設艦高榮丸戦闘詳報。
    • 昭和20年6月5日付 機雷部隊戦闘詳報。
    • 第二十二号海防艦戦時日誌。
    • 大東亜戦争徴傭船舶行動概見表 甲。
  • 第二復員省復員庁
    • 昭和20年12月1日付 内令第5号。
    • 昭和20年12月20日付 内令第12号、官房人第19号。
    • 昭和21年7月1日付 復二第46号、復二第67号。
    • 昭和21年8月1日付 復二第139号。
    • 昭和21年9月5日付 復二第230号。
    • 昭和22年9月5日付 復二第632号。
    • 昭和21年5月2日付 第二復員省辞令公報 甲 第121号。
    • 昭和21年5月20日付 第二復員省辞令公報 甲 第136号。
    • 昭和21年10月21日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第75号。
    • 昭和21年11月4日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第82号。
  • 海防艦顕彰会『海防艦戦記』、原書房、1982年。
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』、出版共同社、1987年。ISBN 4-87970-047-9
  • 坂本正器/福川秀樹 『日本海軍編制事典』、芙蓉書房出版、2003年。ISBN 4-8295-0330-0
  • 月刊シーパワー No. 28 1985年7月号、株式会社シーパワー、1985年。
  • 月刊シーパワー No. 29 1985年8月号、株式会社シーパワー、1985年。
  • 月刊シーパワー No. 33 1985年12月号、株式会社シーパワー、1985年。
  • 世界の艦船 No. 507 増刊第45集 『日本海軍護衛艦艇史』、海人社、1996年。
  • 福井静夫 『写真 日本海軍全艦艇史』、ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1
  • 防衛研修所戦史室 戦史叢書 第46巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(6) -第三段作戦後期-』、朝雲新聞社、1971年。
  • 防衛研修所戦史室 戦史叢書 第71巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(5) -第三段作戦中期-』、朝雲新聞社、1974年。
  • 防衛研修所戦史室 戦史叢書 第88巻 『海軍軍戦備(2) -開戦以後-』、朝雲新聞社、1975年。
  • 丸スペシャル No. 28 日本海軍艦艇シリーズ 『海防艦』、潮書房、1979年。
  • 『三菱長崎造船所史 続篇』、西日本重工業株式会社、1951年。
  • 明治百年史叢書 第207巻 『昭和造船史 第1巻(戦前・戦時編)』、原書房、1977年。
  • 歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol. 45 『真実の艦艇史』、学習研究社、2004年、ISBN 4-05-603412-5
  • 歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol. 51 『真実の艦艇史2』、学習研究社、2005年、ISBN 4-05-604083-4