福原和勝

福原 和勝
山県有朋中将(左)と福原(1872年)
生誕 1846年6月4日
日本の旗 長門国長府
死没 1877年3月23日
日本の旗 福岡県久留米市
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1868 - 1877
最終階級 陸軍大佐
テンプレートを表示

福原 和勝(ふくばら かずかつ、弘化3年5月11日1846年6月4日) - 明治10年(1877年3月23日)は、江戸時代末期から明治時代にかけての長府藩士、陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐

生涯[編集]

長府藩士、村上通虎の三男として生まれた。幼名は百合勝。後に同藩士・福原俊親の養子となって福原俊行を名乗り、後に和勝と改めた。若年ながら武芸に秀で、藩主・毛利元周の護衛等も務めた。元治元年(1863年)から始まる下関戦争では藩内の青年を組織、翌年の英米仏蘭連合艦隊の攻撃では、上陸した幕府軍の陸戦隊と死闘を繰り広げた。 また、同年には長府藩校集童場」創設に尽力した。

慶応元年(1865年)1月18日、熊野則之とともに藩主に隊の編成を願い出て、2月14日に許可が降り「長府藩報国隊」を結成、その初代軍監となった。四境戦争では小倉口に出陣、小倉藩を撃退して小倉口での勝利を確実なものとした。慶応3年(1867年4月上海に渡航した。

明治維新後は、戊辰戦争北越戦争)にも参戦し、旧幕府側の抵抗の鎮圧にあたった。明治2年(1869年)には英国に留学し、明治5年(1872年11月に帰国。将来を嘱望され、明治6年(1873年)1月、陸軍大佐・兵学権頭となり、同年6月、陸軍教導団司令長官心得に就任。翌年の佐賀の乱では佐賀征討総督幕僚参謀として参戦。またその翌年2月には初代の清国公使館武官となった[1]。明治10年(1877年)、西南戦争が勃発。同年3月、和勝は第3旅団参謀長として九州へと向かった。4日、熊本県玉名郡岩村で狙撃され負傷、3月23日、搬送先の久留米病院にて死去した[2]

明治45年(1912年)、従四位を追贈された[3]

脚注[編集]

  1. ^ 『対支回顧録 下 列伝』東亜同文会内 対支功労者伝記編纂会、1936年、179-187頁。
  2. ^ 第3旅団参謀長陸軍大佐 福原和勝他”. JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09081329900、本営通牒 明治10年2月20日~10年9月31日(防衛省防衛研究所). 2020年2月23日閲覧。
  3. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.30

参考文献[編集]

  • 下関市市史編修委員会「下関市市史通史編第二巻「藩制-市制施行」」
  • 豊田泰著「開国と攘夷」
  • 松田十刻著「乃木希典」
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。

関連項目[編集]