祖承訓

祖 承訓(そ しょうくん 生没年不詳)は中国代の武将。文禄・慶長の役に明の朝鮮援兵の将として最初に参戦した。

文禄の役当時は遼陽の副総兵であったが、明朝廷より朝鮮救援の命を受け、文禄元年(1592年)7月16日、少数の日本軍守備兵が残るのみであった平壌奪還を図って5,000の兵を率い奇襲攻撃をかけるも守備兵の善戦により撃退され、さらに急を聞いて駆けつけた小西行長宗義智大友義統立花宗茂黒田長政の追撃を受けて大損害を被って遼陽へ逃げ帰る。

その後、本格的な明軍の朝鮮派兵に伴い再び従軍し、第二次晋州城攻防戦の際には咸陽付近にあったが、その救援に動くことはなかった。

慶長の役では董一元率いる中路軍に属し泗川の戦いに参加し、敗れた。