石川康通

 
石川康通
石川康通像(永順寺蔵)
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文23年(1554年
死没 慶長12年7月26日1607年9月17日
戒名 華嶽宗英
官位 従五位下長門左衛門大夫
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康秀忠
美濃大垣藩
氏族 石川氏
父母 父:石川家成:不詳
兄弟 康通成次大久保忠隣正室、本多康重正室
正室植村家存の娘
忠義内藤信正正室、松平康重正室、松平家乗正室、皆川隆庸正室
養女山口重信正室(大久保忠隣養女)
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石川 康通(いしかわ やすみち)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名美濃大垣藩の初代藩主。伊勢亀山藩石川家初代。石川家成の長男。石川数正は従兄に当たる。

概要[編集]

天正元年(1573年)、武田勝頼率いる武田軍と戦って武名を挙げた。天正8年(1580年)、父が隠居したため、家督を継ぐ。父の家成は家康の従兄弟にあたり、西三河の旗頭となった、徳川家でも一、二を争う重臣であった。天正18年(1590年)、徳川家康が関東に移封された時、それまでの戦功を賞されて上総成戸に2万石の所領を与えられた。

当時の康通は徳川家中の有力大名として、井伊直政本多忠勝榊原康政平岩親吉と共に在京中の家康守護を交代で務めていた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、竹谷松平家清とともに尾張国清洲城の守備を担当した。この功により、戦後に3万石を加増されて5万石となり、美濃大垣藩に移封された。

慶長12年(1607年)、6月26日に仮死状態となるもその夜半に蘇生、大垣城天守の作事を命じて材木等の用意を行わせるも、7月26日父に先立って病死した。享年54。

子の忠義は幼少のため、家督は父が再び継いだが2年後の慶長14年(1609年)に死去、その後は甥の忠総が継承した。