矢島重成

 
矢島重成
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 元亀元年(1570年
死没 寛永17年(1641年
別名 通称:左助(介)、石見守、勘兵衛。号は剛庵
主君 細川藤孝豊臣秀吉立花宗茂立花忠茂
棚倉藩柳川藩
氏族 藤原姓児玉党矢島氏
父母 父:矢島秀行、母:月祥院(恵照院とも、菊亭晴季の娘)
兄弟 瑞松院八千子(立花宗茂の継室)、重成、矢島久次
草野家清の女・華緒(華香院)[1]
矢島重知[2]今川直房[3]、石崎若狹室、矢島重武[4]十時惟慶[5]室、由布惟長[6]、畠山左衛門太夫室、小野正俊[7]室、立花鎮信[8]室、矢島行高[9]
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矢島 重成(やじま しげなり)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将立花氏の家臣。最終的に筑後国柳河藩士。

概要[編集]

父・矢島秀行近江国野洲郡矢島郷の国人衆矢島氏[10]を継いで、矢島に改名した。

生涯[編集]

元亀元年(1570年)、足利義昭の家臣・矢島秀行の子[11]として生まれる。また、足利義昭の子とする説もある[12]

父・秀行が野田城・福島城の戦い(一説は山城国恩庵)で主君・義昭をかばって重傷を負い、12月22日に27歳で亡くなると、3歳の八千子と1歳の重成は母の月祥院(恵照院)に連れられ菊亭家に帰った。やがて親戚の細川藤孝に保護され、細川忠興と共に勉学に励んだという[13][14]

九州征伐の際、豊臣秀吉に従って九州に参戦し、筑後の国人領主・草野家清の調略に功を挙げた。この時、草野家清の娘・華緒と結婚した[1]

朝鮮出兵の文禄の役の頃、豊臣秀吉と細川忠興は、武功の高い立花宗茂が正室との間に子がいないのを案じ、文禄4年(1595年)に宗茂が朝鮮から帰国後、重成の姉・八千子を宗茂の側室[15]に紹介し、この関係で文禄5年(1596年)に重成も宗茂に仕え、2000石を与えられる[13][16]。その後、慶長の役に出陣、吉弘統幸とともに立花軍の4番隊をつとめた[17]

関ヶ原の戦いでは大津城の戦いの帰りに東軍に寝返った鍋島直茂と江上八院で戦い、小野鎮幸率いる約3千の元で戦い、重成は第3陣として参陣した[18][19][20][21][22][23]

立花家改易後も宗茂に従い、江戸での御家再興につとめた。宗茂が棚倉藩を与えられると、重成は財政政策につとめた[24]

大坂の陣でも戦功を挙げる。柳川藩復帰後、家老となり重用され、重成と関わりの深い細川家や畿内大名家との外交・朝廷への挨拶などにつとめた。

また、宗茂は重成の娘を自身の養女として、高家今川直房[25]に嫁がせた[26]

重成の子・矢島重知も家老として島原の乱に参陣し、以降大組組頭世襲家[27]として続く。

寛永18年(1641年)、死去。

脚注[編集]

  1. ^ a b 『柳河藩享保八年藩士系図・上』第一分冊 矢島P.211
  2. ^ 矢島主水正
  3. ^ 立花宗茂養女
  4. ^ 矢島左馬介
  5. ^ 十時內匠
  6. ^ 由布五兵衛。由布惟次養子。
  7. ^ 小野織部
  8. ^ 立花丹下。立花親勝
  9. ^ 矢島勘兵衛
  10. ^ 『柳河藩享保八年藩士系図・上』第一分冊 矢島P.210、『柳川市史』史料編V近世文書(後編)解説 111 矢島文書 P.15、『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十六節 柳川人物小伝(六)矢島行昌 953~954頁によると、先祖は藤原氏児玉党。延元元年に児玉太郎左衛門尉公行は大渡の戦功により、足利尊氏より近江野州郡を賜わり、矢島の郷に住んで氏を矢島と改める。
  11. ^ 『柳河藩享保八年藩士系図・上』第一分冊 矢島P.210、『柳川市史』史料編V近世文書(後編)解説 111 矢島文書 P.15、『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十六節 柳川人物小伝(六)矢島行昌 953~954頁によると、元亀元年三好の残党は京都乱入のとき、公行6代の孫・勘兵衛尉秀行は将軍義昭のため防戦すること数度、最終は山城国恩庵にて戦死した。秀行のことは実は足利義昭の子、近江矢島氏を継ぐ。妻は菊亭晴季の女。子に矢島重成。
  12. ^ 中野等『立花宗茂』P.270による。
  13. ^ a b 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)解説 111 矢島文書 P.15。
  14. ^ 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十六節 柳川人物小伝(六)矢島行昌 953~954頁
  15. ^ 子はできなかった。
  16. ^ 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十六節 柳川人物小伝(六)矢島行昌 954頁
  17. ^ 中野等 『立花宗茂』P.103
  18. ^ 『日本戦史・関原役』(第七篇 本戦前後東西各地ノ諸戦 第十七章 柳河)
  19. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第二十二 江上合戦之事 P.595~614
  20. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第二十三 柳川久留米山下開城之事 P.615~620
  21. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21 小野文書・一六六 「小野和泉・立花吉左衛門・十時源兵衛申分覺」(小野文書312) P.132~133。
  22. ^ 八院の戦い史跡
  23. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(三七)筑後江上八院 慶長五年十月廿日 P.22~25
  24. ^ 中野等 『立花宗茂』P.139、P.141
  25. ^ 今川義元は曾祖父である。
  26. ^ 中野等 『立花宗茂』P.275
  27. ^ 高3000石後に2000石。大組頭兼務家。『柳川市史』史料編V近世文書(後編)解説 111 矢島文書 P.15。

参考文献[編集]

  • 『筑後人物便覧』(福岡県文化會館、筑後史談會、昭和10年刊の複製、1935年、315頁)
  • 『舊柳川藩志・下巻』(柳川山門三池教育會、渡辺村男、1957年、36・245頁)
  • 『旧柳川藩志』