皆実町 (広島市)

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対岸の平野町側から見た広島ガス本社のガスタンク(皆実町一丁目) / 皆実町地区のランドマークともいうべき建造物である。

皆実町(みなみまち)は、広島県広島市南区に所在する町名である。旧称は「皆実」。

概要[編集]

地理[編集]

広島県を流れる太田川三角州上、猿猴川京橋川に挟まれた州の中西部、京橋川沿いに位置する。

地誌[編集]

現在の南区内では比較的早くから発展した住宅地であり、国道487号線(「宇品通り」とも。広島電鉄皆実線および宇品線が併用する電車通りでもある)が地区を縦断する。また南区役所および関連施設など南区の中枢施設が集中していることでも知られ、京橋川沿いの広島ガスガスタンク施設は戦前以来の町のランドマークとなっている。近年は広島市道中広宇品線霞庚午線の開通など町域内の大規模な再開発が進行し、古くからの下町の雰囲気は次第に失われつつある。

町丁[編集]

  • 皆実町一丁目
  • 皆実町二丁目
  • 皆実町三丁目
  • 皆実町四丁目
  • 皆実町五丁目
  • 皆実町六丁目

すべて、住居表示実施済み区域である。郵便番号は734-0007(宇品郵便局管区)。

隣接している地区[編集]

歴史[編集]

安芸国広島城所絵図(1644年頃) / この時点で皆実新開は造成されておらず、比治山沖の干潟であったことが分かる。
安芸国広島城所絵図(1644年頃) / この時点で皆実新開は造成されておらず、比治山沖の干潟であったことが分かる。
広島の新開地発展図(『概観広島市史』1955年) / 皆実新開が宝暦3年(1753年)以前の開発であることが示されている。
広島の新開地発展図(『概観広島市史』1955年) / 皆実新開が宝暦3年(1753年)以前の開発であることが示されている。
1880年の広島市地図
1880年の広島市地図
1930年頃の広島市街図 / 「皆実町」の地名、および「瓦斯会社」(広島ガス)・「地方専売局」(JT広島工場)・「電信第二連隊」など当時の地区内の主要施設も表示されている。
1930年頃の広島市街図 / 「皆実町」の地名、および「瓦斯会社」(広島ガス)・「地方専売局」(JT広島工場)・「電信第二連隊」など当時の地区内の主要施設も表示されている。
被爆により皆実町のガスタンクに付着した陰影 / 原爆の熱線で表面のコールタールが溶け階段やバルブホイールの影が残った。
被爆により皆実町のガスタンクに付着した陰影 / 原爆の熱線で表面のコールタールが溶け階段やバルブホイールの影が残った。
1945年被爆後の広島の航空写真 / 皆実町地区の中では宇品通り(電車通り)の西側、京橋川沿いの地域が原爆により大きな被害を受けている(全壊全焼のため白く見える)のが分かる。
1945年被爆後の広島の航空写真 / 皆実町地区の中では宇品通り(電車通り)の西側、京橋川沿いの地域が原爆により大きな被害を受けている(全壊全焼のため白く見える)のが分かる。

地名の由来[編集]

町名は江戸時代初期に比治山の南に造成された埋め立て地のうち「仁保島西新開」が、1821年文政4年)、村民の願い出により「皆実新開」と改称したことに由来する。「南」(みなみ)の嘉名によるものである。

沿革[編集]

「皆実新開」の時代[編集]

皆実町の起源は江戸時代初期に広島湾島に造成された埋め立て地「皆実新開」に遡る。当時、遠浅の広島湾に浮かぶ島嶼であった比治山および仁保島(現・黄金山)の間には干潟が広がっていたが、1662年寛文2年)、広島藩により比治山から仁保島の大河浦(現在の大河)にかけて築堤がなされ、翌1663年にはこの区域の西半に仁保島西新開、東半に仁保島東新開(のち「東新開」。現在の南区東雲)のふたつの新開地が造成され、広島城下「新開組」に属した。1699年元禄2年)に地詰めが行われた西新開は、1821年文政4年)に至って村民の願い出により「皆実新開」と改称したが、当時この新開地に居住し農業を営む住民はきわめて少なく、藩による耕作も行われた。なお、当時の皆実新開(のちの皆実村→(大字)皆実)は現在の皆実町のほか近隣の出汐および比治山本町の一部など広範な町域を含んでおり、1933年の町名変更までこの境域が維持されたため、元町域であった地区の施設の名称にも「皆実」の名が残されている[1]

「皆実村」から「皆実町」へ[編集]

皆実新開は明治維新後の廃藩置県を経て「皆実村」となり、広島市制の施行(1889年)に伴い「(大字)皆実」、ついで大正期の1916年になって「皆実町」に改称された。この間、この地域は大きな変貌を遂げることになった。皆実新開の造成以来、この地区は広島湾に南面していたが、1884年に至って南に宇品港(現・広島港)の築港および宇品新開(現・南区宇品)の造成が行われることになり、広島市街と築港・新開地を結ぶ宇品新道が村内を縦断する形で建設されたのである。完成後の宇品港が日清戦争開始により軍港として整備されると、比治山の南側には多くの陸軍施設が立地されるようになり、村内(現・皆実町1丁目)にも電信第二連隊が駐屯した。さらに1910年には広島ガスの本社および工場、1922年には専売局煙草製造工場がそれぞれ現在の皆実町1丁目・2丁目に移転・立地し、特に前者の施設であるガスタンクは現在に至るまでこの地区のランドマーク的存在となっている。産業面の変化においては、明治初期の村の主要な産物は棉花であったが、明治20年代の外綿輸入により衰退に向かい、代わって明治中期から大正初期までレンコン栽培が拡大し。蓮田はこの地区の代表的景観となった。1933年昭和8年)になってこの地区では町名の変更が実施され、町域の東部分が出汐町および旭町、南部が翠町として分立した。第二次世界大戦が開始されると、軍事輸送強化のため宇品通りに沿って広島電鉄皆実線が敷設されたが、1945年8月6日原爆投下は、爆心地から約1.7〜2.5kmにあったこの町にも大きな被害を及ぼし、特に2km圏内に入っていた京橋川沿いの地域は全壊全焼ないし全壊地域となり、その他の地域も半壊地域となった。被爆時の熱線により広島ガス工場のガスタンクに付着した階段やバルブホイールの陰影は戦後、原爆十景の一つに選ばれている(現存しない)。

戦後から現在まで[編集]

戦後、皆実町では北部の軍用地が開放されて市営の「平和住宅」が建設される一方、現在の進徳女子高等学校も跡地に移転してきた。また、戦時中に建設された電車通りに沿った西半部から宅地化が進行し、蓮田やネギ畑などの農地はしだいに姿を消していった。御幸橋東詰と旧広島陸軍被服支廠(現在の県立皆実高県立工高校地)を結ぶ街路として戦前から発達していた皆実町中通り商店街(みなみ中通り商店街)は、比較的原爆の被害が小さく、戦後は近隣の広島大学および附属中学・高校などの学生街として繁栄した。1966年、町域の北に新広島バイパス(現:国道2号)が開通したことに伴い、町域の一部を北側の比治山本町、東側の出汐町と交換した。1990年代以降、国道2号の北に位置する段原・出汐地区での再開発の進行にやや遅れて、この地区でも再開発が進行、広島市道中広宇品線霞庚午線の2つの幹線道路が開通[2]して4丁目・5丁目地区を中心に街並も大きく変化しつつある。戦前以来、ガス工場と並んでこの町を代表する施設だったJT広島工場は2004年に閉鎖され、跡地には大規模商業施設「ゆめタウン広島」が2008年に立地している。

年表[編集]

施設[編集]

公共施設[編集]

  • 広島皆実町郵便局(皆実町三丁目)
  • 広島南警察署皆実交番(皆実町六丁目)
  • 猫田記念体育館(皆実町二丁目)
  • 広島県健康福祉センター(皆実町一丁目)
  • 広島県総合技術研究所保健環境センター(同上)
  • 南保健センター(同上)

行政施設[編集]

  • 南区役所・南福祉事務所(皆実町一丁目)
  • 広島南年金事務所(同上)

宗教施設・修養団体施設[編集]

  • 法光寺(皆実町五丁目)
  • 実践倫理宏正会広島南支部 - 広島南倫理会館(皆実町四丁目)[4]

教育・保育機関[編集]

  • 進徳女子高等学校・学校法人進徳学園(皆実町一丁目) - 1946年、進徳高等女学校が南竹屋町から陸軍電信第二連隊駐屯地の跡地に移転。1948年学制改革によって現校名に改称し、そのまま現在に至っている。
  • 広島市立皆実小学校(同上) - 1920年、宇品小学校の校区から分離して開校したこの地区唯一の小学校である。「皆実国民学校」時代の1945年に原爆に被災(爆心地から2.2㎞)。これにより校舎は全壊あるいは半壊、講堂・倉庫などは全壊し、教職員・児童10数名の犠牲者を出した。戦後の1947年に学制改革により現在の校名に改称。校内には「いしぶみ」の碑(皆実小学校職員児童同窓生慰霊碑)が建立され[5]被爆樹木であるシダレヤナギも生命を保っている[6]。1月に同校で実施されるとんどで使用される火は、広島平和記念公園の「平和の灯」から採取されたものを使用している[7]
  • 広島市皆実保育園(同上)

なお広島県立広島皆実高等学校は皆実町ではなく隣の出汐地区に所在する。

公園[編集]

  • 皆実町公園(皆実町二丁目) - 敷地内に皆実町二・三丁目集会所が立地。
  • 皆実町第一公園(皆実町四丁目)
  • 皆実町第二公園(同上)
  • 皆実町第四公園(皆実町一丁目)
  • 皆実町緑地(皆実町六丁目) - 敷地内に平和塔(旧・日清戦争凱旋碑)・皆実西部集会所が立地。

企業[編集]

金融機関[編集]

店舗・商店街[編集]

  • ゆめタウン広島(皆実町二丁目)
  • 皆実町中通り商店街(皆実町三丁目・皆実町四丁目・皆実町五丁目) - 「みなみ中通り商店街」とも。戦前は「被服廠通り」として知られ、戦後は広島大学などに通学する学生のための下宿や飲食店などが建ち並ぶ学生街であったが、同大学の東広島市移転に伴い若干寂れている[8]鷹野橋商店街と並ぶ、古くからの下町の雰囲気を残す商店街として知られる。

その他[編集]

  • 合同宿舎皆実町住宅(皆実町一丁目)
  • 皆実平和住宅(皆実町一丁目) - 戦後初期、旧軍用地(陸軍電信第二連隊駐屯地)跡に建設された市営住宅。最初の4軒はアメリカの林学者でキリスト教クエーカー派F・W・シュモーらの寄付金と労働奉仕により建設され、市に寄付された木造家屋であるが現存しない。同住宅の集会所前には当時シュモーによって造営された日本庭園が移築されている。
  • 医療法人慈徳会真田病院(皆実町三丁目)

かつて存在した施設[編集]

  • JT広島工場(現・皆実町二丁目) - 跡地にはゆめタウン広島が立地。
  • 広島県師範学校(現・皆実町一丁目) - 1911年から1941年まで、比治山本町南西部(ただしこの当時は皆実町1丁目内)から皆実町1丁目の北部に至るまでの区域を校地としていた。同校は1941年に東雲町に移転し、跡地は1945年春に開校した広島県立医学専門学校の校地に転用されたが、原爆により全壊したため校地としては廃止された。2018年現在、跡地には広島エフエム放送本社・広島県健康福祉センター・南区役所などが立地しているが、国道2号線など戦後新たに道路が敷設されているため、跡地は分かりにくくなっている。かつての運動場の南端であった皆実小学校の校庭の一角に、同窓生による「不動心」の碑が建立されており、かつてこの地に師範学校が立地していたことを記念している[9]
  • 陸軍電信第二連隊(現・皆実町一丁目) - 1922年の創設以来、 敗戦まで現在の比治山南麓(現在の比治山本町内)にかけての区域に駐屯。跡地には進徳女子高校などが立地しているが、上記と同様に戦後敷設された国道2号線が旧敷地内を横断しているため、跡地は分かりにくくなっている。
  • 竪岩(竪磐)神社 - 寛延2年に建立された村の鎮守社であったが、1909年比治山神社に統合され廃止。
  • 広島電鉄家政女学校(現・皆実町二丁目) - 現在の猫田記念体育館・ゆめタウン付近に所在。広島電鉄が女子乗務員の確保を兼ねて第二次世界大戦中の1943年に開校したが、原爆投下により大きな被害を出し敗戦直後に廃校。

交通[編集]

道路[編集]

橋梁[編集]

すべて京橋川に架かる橋である。

鉄道[編集]

バス[編集]

人口・世帯数[編集]

2018年7月末の人口・世帯数は以下の通り[10]

町名 人口 世帯数
皆実町一丁目 2,923 1,269
皆実町二丁目 110 61
皆実町三丁目 1,249 597
皆実町四丁目 1,583 780
皆実町五丁目 1,667 770
皆実町六丁目 1,417 921
8,949 4,398

出身・ゆかりのある人物[編集]

参考文献[編集]

  • 大竹嘉治 『広島大河附近の街 旭町 翠町 出汐町 霞町 丹那新町』 大河郷土史研究会、1981年
  • 『広島県の地名』(日本歴史地名大系 第35巻) 平凡社1982年
  • 『角川日本地名大辞典 第34巻:広島県』 角川書店1987年 ISBN 4040013409

脚注[編集]

  1. ^ 現在の翠1丁目に所在していた旧制広島高校校地は、戦後広島大学教養部ついで附属中学・高校の校地として継承され、現在に至っているが、同校出身者には一般に「皆実」校舎として認識されている。また出汐2丁目には(町名改正後の設置であるにもかかわらず)県立皆実高校が立地している。
  2. ^ 用地取得の関係で1980年代まで市道は出汐交差点から皆実高校正門付近までのごく短い区間の整備にとどまっていた。
  3. ^ 皆実小学校職員児童同窓生慰霊碑宇品小学校のあゆみ
  4. ^ 一般社団法人 実践倫理宏正会 - 朝起会場|広島/広島南支部
  5. ^ 広島ぶらり散歩「皆実小学校職員児童同窓生慰霊碑」
  6. ^ 広島ぶらり散歩「(皆実小学校)被爆樹木・シダレヤナギ」
  7. ^ GOOD JOG”. hfm.jp. 2020年5月14日閲覧。
  8. ^ 外部リンクなど参照。
  9. ^ 広島ぶらり散歩「不動心・碑(廣島縣師範學校跡・碑)」
  10. ^ 広島市 人口,世帯数(町丁目別) 2018年8月30日閲覧。

関連事項[編集]

外部リンク[編集]