畠山貞政

 
畠山貞政
時代 戦国時代後期 - 江戸時代前期
生誕 弘治3年(1557年
死没 寛永18年3月7日1641年4月16日
戒名 円覚院玄心覚山[1]
墓所 京都東山禅林寺[2]
官位 左衛門佐[1][2]
氏族 畠山氏(尾州家)
父母 父:畠山政尚、母:湯川直光養女(湯川式部少輔の娘)[1]
養父:秋高[2]、または高政[1]
高政の娘[1][2]
政信宮原家政[2]
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畠山 貞政(はたけやま さだまさ)は、戦国時代後期から江戸時代前期にかけての武将。畠山尾州家当主。

生涯[編集]

弘治3年(1557年)、畠山政尚の子として生まれる[2]

河内半国及び紀伊守護である畠山氏の家督は、政尚の兄・高政から弟・秋高に譲られており、貞政は秋高(または高政[1])の養子となってその跡を継いだ[2]元亀4年(1573年)に守護代遊佐信教により秋高が殺害[3]された後は、室町幕府の滅亡もあって、畠山氏が守護の座に就くことはなくなったが、紀伊国有田郡に所領を持つ有力領主としての地位は保持していた[4]

天正12年(1584年)、羽柴秀吉徳川家康が争った小牧・長久手の戦いの際、家康の誘いで紀伊での挙兵を計画するが、秀吉と家康が和睦しため未遂に終わった[2]

翌天正13年(1585年)3月、秀吉が紀州攻めに乗り出すと、畠山氏は湯川氏らとともにそれに抵抗した[4]。同月下旬には、仙石秀久中村一氏小西行長らにより鳥屋城(現在の和歌山県有田川町)が攻め落とされ、畠山式部大輔や根来寺法師蓮蔵院らが討死する[5][6][注釈 1]。また、貞政の居城・岩室城有田市)も秀吉軍に攻められて落城した[2][7]。この時、貞政の家臣・白樫某(左衛門尉か[8])が、畠山家の存続と引き換えに内応することを秀吉に申し入れ、この白樫某が城に火を放ち兵を挙げたことで岩室城は陥落したという[2][9]

貞政はこの後、高野山などを遍歴した後[2]摂津国小平野庄に住んだとされる[1][2]

寛永18年(1641年)3月7日に死去[1][2]。享年85[1][2]

貞政の子・政信は、寛永元年(1624年)より3代将軍徳川家光に仕え、その子・基玄の代に奥高家へと任じられた[2]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 新谷 (2017, p. 24) は、弓倉 (2006, pp. 125–127) が畠山式部大輔らの戦死地を湯川館としたことに触れ、湯川館でなく鳥屋城と捉えるべきだとしている。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i 塙保己一 編「両畠山系図」『続群書類従 巻115-116』https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2553646/25 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 寛政重修諸家譜』巻第九十八(『寛政重脩諸家譜 第1輯』國民圖書、1922年、561–562頁)。
  3. ^ 弓倉 2006, p. 346.
  4. ^ a b 弓倉 2006, p. 125.
  5. ^ (天正13年)3月25日付羽柴秀吉書状(「小早川家文書」『大日本古文書家わけ十一』、『大日本史料』十一篇之十四)。
  6. ^ 鈴木 1989, pp. 317–318; 新谷 2017, p. 23–24.
  7. ^ 鈴木 1989, pp. 318–319; 弓倉 2006, pp. 126–127.
  8. ^ 鈴木 1989, p. 319.
  9. ^ 鈴木 1989, pp. 318–319.

参考文献[編集]

  • 新谷和之 著「紀伊国における守護拠点の形成と展開」、小谷利明; 弓倉弘年 編『南近畿の戦国時代 躍動する武士・寺社・民衆』戎光祥出版〈戎光祥中世史論集 第5巻〉、2017年。ISBN 978-4-86403-267-4 
  • 鈴木眞哉 著「和歌山県」、戦国合戦史研究会 編『戦国合戦大事典 第四巻 大阪 奈良 和歌山 三重』新人物往来社、1989年。ISBN 4-404-01595-X 
  • 弓倉弘年『中世後期畿内近国守護の研究』清文堂出版、2006年。ISBN 4-7924-0616-1 
先代
畠山秋高
河内畠山氏(尾州家)
畠山貞政
次代
畠山政信