畠山義真

 
畠山義真
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正7年(1579年)?
死没 延宝2年9月28日1674年10月27日
改名 亀千代(幼名)→上杉義真→畠山義真
一庵・紹閑(号)
別名 通称:弥三郎
戒名 興心院殿寂譽一菴紹閑大居士
墓所 大阪府柏原市玉手町の安福寺
官位 従五位下長門下総
幕府 江戸幕府旗本
主君 上杉景勝豊臣秀吉秀頼
徳川家康秀忠家光家綱
氏族 上条上杉家能登畠山氏
父母 父:畠山義春、母:長尾政景
養父:上杉景勝[1]
兄弟 景広上杉長員義真小山田義広
基昌義里内藤勝次
テンプレートを表示

畠山 義真(はたけやま よしざね)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武士旗本

略歴[編集]

畠山義春の三男[2]として誕生した。

母方の伯父である越後国戦国大名上杉景勝の養子となり、天正11年(1583年)に上杉義真と名乗った(継嗣扱い)。『上杉家御年譜』によると天正14年(1586年)、豊臣秀吉に人質として送られるが、4年後には上杉家に戻った。

しばらくして、上杉家を出て河内国に住していた実父・義春の許で暮らす。関ヶ原の戦いで父は東軍に属し、兄・長員が1490石の所領を与えられ別家(高家上杉家)を興す。 その後、義真は畠山姓に復し、名実共に能登畠山氏の名跡を継承した。

慶長6年(1601年)、徳川家康に拝謁して近侍を始める。元和3年(1617年)には大和国宇智郡に3120石の知行を与えられ上級旗本となった。徳川秀忠に草創期の高家として傍に仕え、江戸城で行われる式典の基礎を築いた。また、景勝の孫・上杉綱勝がわずか8歳で米沢藩3代藩主となると、義真は江戸城登城の際に必ず同伴するなど、後見的な役割を果たした。

寛永10年(1633年)、三次藩主の浅野長治に『上杉流之軍配免許』「九重巻号令幕之巻」を授与する[3]

万治2年(1659年)に隠居し、家督を次男の義里に譲った。 延宝2年(1674年)、90歳を超える長寿で死去した。

脚注[編集]

  1. ^ のち縁組解消。
  2. ^ ただし享年を計算すると兄・長員の方が年下になってしまうため疑問が残る。
  3. ^ 三次藩文書『鳳源君御伝記』