王通 (陳)

王 通(おう とう、503年 - 575年)は、南朝梁からにかけての政治家は公達。本貫琅邪郡臨沂県

経歴[編集]

王琳と義興昭長公主蕭令嫕(南朝梁の武帝の同母妹)のあいだの子として生まれた。はじめ国子生となり、明経に挙げられて、秘書郎・太子舎人となった。南朝梁の武帝の外甥として武陽亭侯に封じられた。王府主簿・限外記室参軍・司徒主簿・太子中庶子・驃騎廬陵王府給事中郎・中権何敬容府長史・給事黄門侍郎を歴任したが、事件に連座して免官された。

侯景の乱が起こると、王通は江陵に逃れ、元帝のもとで散騎常侍となり、太常卿を代行した。侯景の乱のために建康の宮殿は焼尽したため、王通は起部尚書を兼ねて、建康の宮殿の再建にあたった。承聖3年(554年)、江陵が陥落すると、王通は敬帝のもとで吏部尚書となった。紹泰元年(555年)、侍中の位を加えられた。まもなく吏部を領したまま尚書右僕射となった。

永定元年(557年)、南朝陳が建国されると、尚書左僕射に上った。天嘉元年(560年)、文帝が即位すると、太子少傅を兼ねた。天康元年(566年)、翊右将軍・右光禄大夫の位を受け、佐史を置いた。廃帝が即位すると、安右将軍の位を受け、南徐州大中正を兼ねた。太建元年(569年)、左光禄大夫の位を受けた。

太建6年12月(575年1月)、特進の位を加えられたが、受けないうちに死去。享年は72。は成といった。

伝記資料[編集]