王謨 (中華民国)
王謨 | |
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出典:『朝日新聞』(東京) 昭和18年(1943年)11月12日 | |
プロフィール | |
出生: | 1895年[1] |
死去: | 不詳 |
出身地: | 清四川省順慶府儀隴県[2][3] |
職業: | 政治家・教育家 |
各種表記 | |
繁体字: | 王謨 |
簡体字: | 王谟 |
拼音: | Wáng Mó |
ラテン字: | Wang Mo |
和名表記: | おう ぼ/おう も |
発音転記: | ワン モー |
王 謨(おう ぼ/おう も)は、中華民国の教育者・地理学者・政治家。南京国民政府(汪兆銘政権)の要人。字は献芻[2]。
事績[編集]
東京高等師範学校(東京教育大学を経た、現在の筑波大学)、東京帝国大学を卒業して理学士の学位を得る。帰国後は、国立武昌大学、国立北京師範大学、国立清華大学、国立北京大学女子文理学院などの地理学系教授や講師を歴任し[2][4]、北京政府時代には参議院議員もつとめた[3]。1942年(民国31年)まで北京師範学院院長をつとめ、その後に北京師範大学教授をつとめる[4]。
1943年(民国32年)11月、華北政務委員会の改組に伴い、王謨は同委員会の教育総署督弁兼常務委員に任ぜられた。しかし、翌年7月に辞任した[5]。
汪兆銘政権崩壊後に、王謨は他の華北要人と共に漢奸の罪で逮捕、南京へ護送された[6]。その後の審理状況や判決、行方は不明である[7]。
出典[編集]
- ^ 『朝日新聞』(東京)昭和18年11月12日、2面記事に「本年49歳」とある。ここでは数え年として生年を記載した。
- ^ a b c 外務省情報部編、48頁。
- ^ a b 劉ほか編(1995)、1255頁。
- ^ a b 『朝日新聞』(東京)昭和18年11月12日、2面。
- ^ 郭主編(1990)、1885頁。その後は1945年2月まで、華北政務委員会委員長の王克敏が兼任代理している。劉ほか編(1995)、1059頁では、王克敏の代理について記載がなく1945年2月に王謨が辞任、としている。
- ^ 「王謨読別字」『大地』第8期、1946年6月2日、救国日報社(出版地:南京)、3面。
- ^ ウィキペディア中国語版では「死刑執行」となっているが、根拠不明。
参考文献[編集]
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌 下』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4。
- 外務省情報部編『現代中華民国満洲国人名鑑 昭和12年版』東亜同文会業務部、1937年。
- 柴田陽一「日本と中国の地理学史における王謨の役割」日本地球惑星科学連合2014年大会 2014年4月29日
南京国民政府(汪兆銘政権)
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