王九齢

王九齢
プロフィール
出生: 1879年光緒5年)[1]
死去: 1951年
中華人民共和国
出身地: 雲南省大理府雲竜州
職業: 政治家
各種表記
繁体字 王九齡
簡体字 王九龄
拼音 Wáng Jiǔlíng
ラテン字 Wang Chiu-ling
和名表記: おう きゅうれい
発音転記: ワン ジウリン
テンプレートを表示

王 九齢(おう きゅうれい)は、中華民国の政治家。雲南派に属する。竹村夢菊

事績[編集]

清末に日本に留学し、法政大学を卒業した。このときに雲南留日学生総監を務め、また、中国同盟会に加入している。1911年(宣統3年)9月末に、蔡鍔唐継尭らによる昆明重九起義(雲南辛亥革命)に参加した。雲南軍政府が成立した後には、民事を担当した。1913年民国2年)、王は雲南督軍署秘書に任命された。これ以後、唐継尭の配下となる。護法運動が開始されると、靖国聯軍総司令部軍法処長に任じられた。1921年(民国10年)、雲南陸軍軍法科科長となり、1923年(民国12年)、雲南財政司司長に昇進した。[2][3]

1924年(民国11月)、段祺瑞が臨時執政として復権したことを受けて、王九齢は北京に赴く。そこで教育総長に任命される予定であったが、実際には就任できなかった。結局、王は雲南に戻り、省政務委員兼塩運使に任じられた。これら以外にも、富滇銀行行長、東陸大学名誉校長なども歴任している。[2][3]

1927年(民国16年)2月、唐継尭が、部下の竜雲ら4鎮守使の兵変により失脚してしまう。唐の腹心であった王九齢もまた下野し、政界から事実上引退した。日中戦争(抗日戦争)期間中には、雲南省参議会議員に選出されている。中華人民共和国が成立した後も、王九齢は雲南に留まった。雲南省政治協商会議委員、雲南省仏教協会会長などをつとめている。1951年、死去。享年73。[2][3]

[編集]

  1. ^ 『雲南辞典』(1993)、618頁による。徐主編(1882)、60頁は1882年光緒8年)とする。
  2. ^ a b c 徐主編(2007)、60頁。
  3. ^ a b c 『雲南辞典』(1993)、618頁。

参考文献[編集]

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 雲南辞典編輯委員会編『雲南辞典』雲南人民出版社、1993年。ISBN 7-222-01264-8 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
易培基
教育総長(就任せず)
1924年11月 - 1925年4月
馬叙倫が代理)
次代
章士釗