狂歌

狂歌(きょうか)とは、社会風刺皮肉滑稽を盛り込み、五・七・五・七・七の音で構成した諧謔形式の短歌和歌)。

歴史[編集]

狂歌の起こりは古代中世に遡り、狂歌という言葉自体は平安時代に用例があるという。落書(らくしょ)などもその系譜に含めて考えることができる。独自の分野として発達したのは江戸時代中期で、享保年間に上方で活躍した鯛屋貞柳などが知られる。

特筆されるのは江戸の天明狂歌時代で、狂歌がひとつの社会現象化した。そのきっかけとなったのが、明和4年(1767年)に当時19歳の大田南畝(蜀山人)が著した狂詩集『寝惚先生文集』で、そこには平賀源内が序文を寄せている。明和6年(1769年)には唐衣橘洲(からころもきっしゅう)の屋敷で初の狂歌会が催されている。これ以後、狂歌の愛好者らは狂歌連を作って創作に励んだ。朱楽菅江(あけらかんこう)、宿屋飯盛(やどやのめしもり、石川雅望)らの名もよく知られている。

狂歌には、『古今和歌集』などの名作を諧謔化した作品が多く見られる。これは短歌の本歌取りの手法を用いたものといえる。

明治以降は、1904年明治37年)頃から読売新聞記者田能村秋皐(筆名は朴念仁もしくは朴山人)が流行語などを取り入れた新趣向の狂歌を発表し、「へなぶり」という呼称で人気ジャンルとなった。

現代でも愛好者の多い川柳と対照的に、狂歌は近代以降人気は衰えた。しかし石川啄木をはじめ近代の大歌人たちも「へなぶり」に感化をされており、近代短歌の精神の中に狂歌的なものは伏流しているという指摘が吉岡生夫らによってなされている。

狂歌の例[編集]

ほとゝぎす自由自在に聞く里は酒屋へ三里 豆腐屋へ二里(頭光(つむりのひかる))
花鳥風月を常に楽しめるような場所は、それを楽しむための酒肴を買う店が遠くて不便だという意味で、風流趣味を揶揄している。
ほとゝぎす鳴きつるあとにあきれたる後徳大寺の有明の顔(大田蜀山人)
百人一首徳大寺実定の歌(ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる)が元歌
歌よみは下手こそよけれ天地の 動き出してたまるものかは(宿屋飯盛)
古今和歌集仮名序の「力をもいれずして天地を動かし…」をふまえた作。
世わたりに春の野に出て若菜つむ わが衣手の雪も恥かし
百人一首の光孝天皇の歌(君がため春の野に出でて若菜つむ わが衣手に雪は降りつつ)が元歌。
はたもとは今ぞ淋しさまさりけり 御金もとらず暮らすと思へば
享保の改革の際に詠まれたもので、旗本への給与が遅れたことを風刺している。
百人一首の源宗于の歌(山里は冬ぞ寂しさまさりける 人目も草も枯れぬと思へば)が元歌。
白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき
寛政の改革の際に詠まれたもの。白河は松平定信の領地。定信の厳しい改革より、その前の田沼意次の多少裏のあった政治の方が良かったことを風刺している。大田南畝作という評判もあったが本人は否定した。別の寛政の改革批判の狂歌である「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといふて夜も寝られず」も 「詠み人知らず」とされているが、大田南畝作の説が有力である。
泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず
黒船来航の際に詠まれたもの。上喜撰とは緑茶の銘柄である「喜撰」の上物という意味であり、「上喜撰の茶を四杯飲んだだけだが(カフェインの作用により)夜眠れなくなる」という表向きの意味と、「わずか四杯(ときに船を1杯、2杯とも数える)の異国からの蒸気船(上喜撰)のために国内が騒乱し夜も眠れないでいる」という意味をかけて揶揄している。
名月を取ってくれろと泣く子かな それにつけても金の欲しさよ
下の句を「それにつけても金の欲しさよ」に付け合うことで、どんな風雅な句も狂歌の体に収斂させてしまう言葉遊びを「金欲し付合」という[1]。江戸中期に流行した。
世の中に寝るほど楽はなかりけり浮世の馬鹿は起きて働く(読み人知らず)
道教、足るを知ること、等に通じる高尚なところもあり、怠け者の自己弁護のようなところもある有名な歌。

狂歌連[編集]

大田南畝の率いる山の手連、唐衣橘洲らの四谷連など武士中心の連のほか、町人を中心としたものも多く、五代目市川團十郎とその取り巻きが作った堺町連や、蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)ら吉原を中心にした吉原連などもあった。

著名な狂歌師[編集]

狂歌師は洒落に富んだ狂名を号した。

狂歌三大家[編集]

狂歌四天王[編集]

その他の狂歌師[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 荻生待也編著『図説ことばあそび 遊辞苑』 遊子館 2007年平成19年) p.263.
  2. ^ 紫檀楼古木(したんろうふるき) - 大辞泉

参考文献[編集]

関連項目[編集]