漆川の戦い

漆川の戦い

漆川古戦場碑
戦争南北朝の内乱
年月日正平23年/応安元年(1368年
場所出羽国寒河江荘荻袋
山形県西村山郡大江町
結果:北朝側の勝利
交戦勢力
南朝
寒河江軍
北朝
室町幕府
指導者・指揮官
大江茂信  斯波兼頼
大崎直持
戦力
不明 ・数万騎
損害
63名 不明
南北朝の内乱
漆川古戦場の位置(山形県内)
漆川古戦場
漆川古戦場
漆川古戦場 (山形県)

漆川の戦い(うるしがわのたたかい)は、南北朝時代正平23年/応安元年(1368年)、出羽国において、南朝大江茂信らと北朝室町幕府鎌倉公方足利氏満羽州探題斯波兼頼奥州探題大崎直持らとの間で行われた戦い。

背景[編集]

羽州探題斯波兼頼[編集]

奥羽地方での南北朝の対立は当初陸奥国多賀城を中心として行われた。多賀城に拠る鎮守府将軍北畠顕家延元2年/建武4年(1337年奥州総大将石塔義房伊達郡霊山に追いやり、顕家が摂津国で戦没後は、後任の鎮守府将軍北畠顕信(顕家の弟)が興国3年/康永元年(1342年)多賀城の奪還を狙い石塔義房と陸奥国栗原郡三迫(宮城県栗原市)で戦い顕信軍は敗北、南朝の勢力は後退することになる。その後奥州管領吉良貞家畠山国氏が赴任するが観応の擾乱で北朝側も混乱をきたし、正平6年/観応2年(1351年)北畠顕信が多賀城を奪回、しかし翌年には勢力を回復した北朝側吉良氏が取り戻し状況はめまぐるしく変化した。正平8年/文和2年(1353年)顕信は吉良に敗れ陸奥を脱出、出羽国が南北朝の争いの舞台となる。

正平9年/文和3年(1354年)吉良貞家の後任として斯波家兼が奥州管領として赴任すると畠山平石丸・石塔義基(石塔義憲)が奥州管領を自称し、吉良貞家の子満家も含めて四管領乱立の状況となる。この争いは斯波氏優勢で進み正平11年/延文元年(1356年)斯波家兼の次男斯波兼頼羽州探題として出羽へ入部する。兼頼は事前工作として、成生荘(山形県天童市成生)に勢力を扶植しつつあった里見義景に弟義宗を養子として送り込み、また山家氏も婚姻政策によって傘下に組み入れた。兼頼は山形城を築き山寺をはじめとする寺社勢力の懐柔につとめ、最上郡東部(現・山形市東村山郡など)に勢力の根を下ろしていく。

斯波兼頼と大江元政[編集]

出羽国寒河江荘においては、大江親広の死後北寒河江荘が闕所となっていたが、親広五世孫大江元政の代の正平6年/観応2年(1351年)回復を目指して侵略を繰り返していたことがわかる[1]。 正平13年/延文3年(1358年)4月足利尊氏が没すると、南朝側の活動が全国的に活発になる。8月北畠顕信は鳥海山大物忌神社に願文を捧げ、南朝側の諸将を糾合して決起し、寒河江大江氏もこれに応えたとみられる。大江元政は正平14年/延文4年(1359年)斯波兼頼と争い、弟懐広・顕広とともに討ち死にしたという。なお北畠顕信の事績も大物忌神社への寄進状以降見られなくなる[注釈 1]

寒河江大江氏の防衛戦略[編集]

寒河江大江氏の防御拠点

大江元政の死後、跡を継いだ時茂は一族の子弟を荘内各地に配置し防御を固める戦略に出た。すなわち、嫡男茂信を溝延・次男元時を左沢楯山城・茂信の子政広を白岩城に配置し、さらに寒河江・柴橋・小泉・高屋・荻袋・見附にも楯を築いた。

経過[編集]

正平22年/貞治6年(1367年)4月、鎌倉公方足利基氏が死去し、12月には室町幕府2代将軍足利義詮が没した。これに端を発し、翌年7月越後に潜居していた新田義宗脇屋義治が挙兵し、出羽の諸氏が関東と連携して挙兵する状態にいたる。寒河江大江氏もこの流れの中で挙兵したとみられ、奥州管領大崎直持・羽州管領斯波兼頼を指揮官とする数万の軍による討伐を受けることとなる。大江氏当主大江時茂は嫡男の溝延城主大江茂信を総大将としてこれにあたる。沖津常太郎によれば、斯波氏は最上川の強固な防衛ラインを避ける戦略を選び、迂回して五百川渓谷沿いの諸楯を落とし、富沢口から攻め寄せると見せて別働隊を漆川[注釈 2]上流で渡河させ大江軍の後背を突いた。両軍は諏訪原(西村山郡大江町本郷)で激突したが、背後を取られた大江軍は混乱に陥り荻袋(西村山郡大江町荻野)の要害を頼って集結してしまったとする。荻袋楯に籠った大江一族は大軍に包囲され全員自害をとげ、その数は61名に上った。溝延城代だった安孫子紀伊は主人茂信戦死の報に触れ、童子を連れて主人の後を追って殉死したため合計63人が自害したと記される。

 
大江元政(故人)
 
大江時茂
 
大江茂信(溝延)◆
 
吉川家広
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
修理亮◆
 
 
白岩政広
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
左沢元時◆
 
左沢氏政
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
荻袋冬政◆
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寒河江時氏
 
寒河江元時
 
 
 
 
 
 
 
 
 
柴橋懐広(故人)
 
柴橋直宇◆
 
小泉時宇◆
 
 
 
 

◆漆川の戦いで自害。

その後[編集]

影響[編集]

長泉寺境内(荻袋塁跡)の供養塔

足利軍は寒河江荘には深入りせずに引き上げ大江氏の寒河江荘の領有はその後も認められたが、北寒河江荘は斯波兼頼の支配下に入った。出羽国における南朝側の組織立った抵抗はこの戦いをもって終結し、東国での南朝側の組織的抵抗も新田義宗の敗死により収束することになった。

出羽斯波氏(後の最上氏)は最上川東岸の地に勢力を扶植するために、二代最上直家の子らを高擶・蟹沢・成沢などの要地に配し勢力を伸張していった。 天童城に拠る北畠天童丸[注釈 3]も最上氏の圧力に抗しきれず文中年間(1372年1374年)陸奥浪岡に逃れたという。その後天童には最上直家の子頼直が入る。

漆川の戦いの5年後文中2年/応安6年(1373年)大江時茂は四男時氏[注釈 4]に対して、北朝側に和を乞い降ることを遺命して生涯を閉じた。大江時氏は嫡男元時を人質として鎌倉に差し出し、鎌倉公方足利氏満から本領安堵一家正嫡の御教書を受けた。時氏は長兄茂信の遺児を宗廟の地である吉川に配して阿弥陀堂を守らしめ、自らは寒河江に居を移し寒河江氏を称するようになった。

近世の遺物出土[編集]

森ノ宮(白山神社)
  • 昭和初期荻野(明治期尾花沢市荻袋村と重複することから改称)長泉寺境内から大量の人骨が発掘され、荻袋塁が長泉寺境内にあったことが確認された。昭和11年境内に大江一族の供養塔が建立された。
  • 荻袋の東方約2kmに白山神社を祀った森ノ宮がある北緯38度22分32.63秒 東経140度12分6.52秒。昭和57年圃場整備の際大量の人骨が出土したため巨海院(大江町本郷己)に移して弔ったという。

遺構[編集]

  • 漆川古戦場跡(石碑)
山形県西村山郡大江町本郷丙北緯38度22分30.06秒 東経140度11分8.39秒
  • 漆川戦殉難者供養塔(長泉寺境内)
山形県西村山郡大江町荻野32北緯38度22分13.77秒 東経140度10分55.49秒

その他[編集]

大江元政の祖である大江親広は一時、北畠顕家・北畠顕信兄弟の祖である源通親の猶子となり源親広を名乗った。

源通親(久我)
 
中院道方
 
北畠雅家
 
北畠師親
 
北畠師重
 
北畠親房
 
北畠顕家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北畠顕信
 
 
 
 
 
 
大江広元
 
 
親広
 
広時
 
政広
 
元顕
 
元政
 
時茂
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 発給文書から1362年ころまで生存していたようであるが、南部氏を頼って北上したとも九州に下向したともいう。
  2. ^ 西村山郡大江町を流れる最上川支流月布川の古称。
  3. ^ 北畠顕家末葉という。
  4. ^ 病に臥せっていたため漆川の戦いには参加しなかった。

出典[編集]

  1. ^ 『大日本史料』第6編14冊971頁、足利直義「御判御教書」

参考文献[編集]

  • 寒河江市史編さん委員会 『寒河江市史 上巻』、1994
  • 寒河江市史編纂委員長 阿部酉喜夫 『寒河江大江氏』、1988
  • 東京大学史料編纂所 『大日本史料』データベース

関連項目[編集]

外部リンク[編集]