源多

 
源多
時代 平安時代初期 - 前期
生誕 天長8年(831年
死没 仁和4年10月17日888年11月24日
官位 正二位右大臣左近衛大将従一位
主君 仁明天皇文徳天皇清和天皇陽成天皇光孝天皇宇多天皇
氏族 仁明源氏
父母 父:仁明天皇、母:百済王豊俊の娘
兄弟 道康親王宗康親王時康親王人康親王本康親王国康親王常康親王貞登成康親王、新子内親王、親子内親王、平子内親王、柔子内親王、眞子内親王、重子内親王、久子内親王、時子内親王高子内親王
不詳
淵、、任、、清
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源 多(みなもと の まさる)は、平安時代初期から前期にかけての公卿仁明天皇の皇子(仁明第一源氏)。官位正二位右大臣左近衛大将従一位

経歴[編集]

一般に仁明天皇第一源氏とされており、多の兄弟で源姓を賜与され臣籍降下した者たちを仁明源氏と称す。

承和2年(835年源朝臣の姓を賜与された。嘉祥2年(849年無位から従四位下直叙され、翌嘉祥3年(850年阿波守に任ぜられたが、同年4月に父・仁明天皇と共に出家した。間もなく還俗したらしく、仁寿2年(852年)正月に阿波守に再任され、次いで宮内卿に転じて、美作守備中守を兼任した。

仁寿4年(854年)24歳で参議に任ぜられる。議政官として宮内卿・左兵衛督左衛門督を歴任した。天安2年(858年清和天皇の即位に伴って正四位下に叙せられる。貞観8年(866年従三位、貞観12年(870年中納言、貞観14年(872年大納言、貞観17年(875年正三位清和朝中盤以降は順調に昇進し、貞観19年(877年)には左近衛大将も兼ねた。

元慶3年(879年従二位、元慶6年(882年右大臣に叙任され、同年職封半減を上表して許された。大納言昇進後の陽成天皇光孝天皇治世下において、上席の左大臣源融を凌ぐ権勢を持ち、上卿として多くの官符を奉勅宣布している。仁和3年(887年正二位に叙位されたが、翌仁和4年(888年)10月17日に病気により薨御。死の直前の顔色は土色で吐血して気絶し、そのまま没したという[1]享年58。最終官位は正二位右大臣兼左近衛大将。没後従一位追贈された。

逸話[編集]

  • 仁和年中に深紅色の衣服の着用が禁じられていたにもかかわらず、右大臣の多は深紅の襖子(あおし)を着用し、検非違使小野道風に裂き取られたことがあったと伝わる。
  • 学者として、また漢詩人としても名高かった島田忠臣菅原道真の舅にして師)と交流があり、元慶7年(883年)春に忠臣が美濃介として地方官に任じられ、健康に優れない状態[2]を押して任地の美濃国に赴いた際、右大臣であった多は忠臣に対し馬を贈っている[3]

官歴[編集]

注記のないものは『六国史』による。

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『朝日日本歴史人物事典』
  2. ^ 『田氏家集』105
  3. ^ 『田氏家集』107
  4. ^ a b c d 『公卿補任』
  5. ^ 『日本紀略』
  6. ^ 栗原信充考訂『百済王三松氏系図』

出典[編集]

  • 武田祐吉佐藤謙三訳『読み下し 日本三代実録』(上下巻)、戎光祥出版、2009年
  • 『公卿補任 第一篇』(吉川弘文館、1982年)
  • 『尊卑分脈 第三篇』(吉川弘文館、1987年)
  • 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』(古代氏族研究会、1986年)
  • 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年