渡辺守

 
渡辺 守
時代 江戸時代
生誕 慶長15年(1610年
死没 不明
別名 権兵衛(通称[1]
主君 徳川綱重
甲斐甲府藩
氏族 渡辺氏
父母 渡辺糺
米倉昌尹[1]
テンプレートを表示

渡辺 守(わたなべ まもる)は、江戸時代前期の武士。甲府藩主徳川綱重の家臣で、子孫は江戸幕府の旗本となった[1]

豊臣家に仕えた渡辺糺(内蔵助)の子という[1]大坂の陣での大坂落城時に父や祖母(豊臣秀頼の乳母である正栄尼)らは自害するが、守は乳母の機転で城を脱出し、追及の手を逃れたと伝えられる。

生涯[編集]

『続武家閑談』の記載[編集]

木村高敦によって18世紀前半に編纂された『続武家閑談』十八では、守の大坂落城後の動きと甲府徳川家への仕官の経緯について、以下のように伝える[2]

守は糺の長男で、大坂落城時には6歳であった。落城の際、糺[注釈 1]は二男・三男を刺殺し、長男も連れてくるように乳母に申し付けたが、乳母は白小袖を着せてくるからと言ってその場を逃れ、渋紙に包んで綱から下げて櫓から降ろし、乳母も命からがら脱出した。乳母は町屋の便所に守を隠してほとぼりが冷めるのを待っていたが、残党狩りを行う徳川方によって捕縛された。乳母は拷問を受けたものの「渡辺家中の水谷清兵衛という者の妻と子である」と主張し、守も打擲を受けたがついに糺の子であると自白しなかった。徳川方は金1両を出すならば軽輩の者の子として見逃すと言い出したために、乳母は「渡辺の郷」に行って百姓たちに頼ったところ、百姓たちも渡辺家代々の恩と乳母の忠義心に感じて金子を調達し、守は解放された。その後、守は京都に潜伏し、南禅寺で出家した。

18歳のとき、親戚筋(「一門」)に当たる「細川越州」(細川忠興)や「一柳土州」[注釈 2]が働きかけて還俗し、素心尼(祖心尼[注釈 3]の伝手を頼って徳川綱重への仕官を働きかけた。仕官の実現には数年を要したが、武名の高い渡辺糺の子であるからと500石を与えられ、「軽卒の頭」として「長くかの御家に仕えた」という。

その後の渡辺家[編集]

守の子の勝(すぐる)も甲府徳川家に仕え、小姓組・書院番組頭・持筒頭などを歴任した[1]。綱豊(徳川家宣)が将軍として江戸城に入ったため、これに従って500石取りの旗本となった[1]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『続武家閑談』では渡辺糺の最期について、秀頼の再起のために近江国に潜行したが、秀頼が自害したと聞いて切腹したとする説を採用し(渡辺家の所伝であったらしく「かの家の正説疑いなし」と評価している)、大坂城で自害したと伝えられたのは似た首によるものであろうとしている。
  2. ^ 大名一柳家の当時の当主は一柳直盛であるが、土佐守は名乗っていない。ただし18世前半には小野藩主一柳家が代々「土佐守」を称している。
  3. ^ 『大日本史料』が引く『続武家閑談』では「素心尼」とし、「牧野兵部太輔後家」、前田了心の母とある[2]。この人物は「祖心尼」とも表記され、牧村利貞(兵部大輔)の娘で、前田利長の養女となり、前田直知の妻となって一子(対馬守入道了心)を生んだ。直知の死後、町野幸和の妻となって一女を生むが、幸和の死後には出家して徳川家光に仕えたという人物である。家光の寵遇を得、牛込に済松寺を開いた[3]。祖心尼と町野幸和との娘が生んだ娘は、家光の側室(自証院)になった[4]。素心尼の父の利貞は稲葉家の出身で、春日局は利貞の弟である稲葉正成の妻であった時期があるため縁戚関係にある[5]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』巻第千三百十四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第七輯』p.917
  2. ^ a b 『大日本史料』第12編之19(東京大学史料編纂所、1917年)、pp.960-961
  3. ^ 湯淺隆 2012, pp. 74–75.
  4. ^ 湯淺隆 2012, p. 79.
  5. ^ 湯淺隆 2012, p. 75.

参考文献[編集]

  • 寛政重修諸家譜』巻第千三百十四
    • 『寛政重修諸家譜 第七輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082721/469
  • 湯淺隆「江戸城大奥を介在した寺院建物修復費用の調達 : 江戸西郊牛込の濟松寺の場合」『駒沢史学』第77号、2012年。 NAID 120006617536