浦上山里村
うらかみやまざとむら 浦上山里村 | |
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廃止日 | 1920年10月1日 |
廃止理由 | 編入合併 上長崎村、浦上山里村 → 長崎市 |
現在の自治体 | 長崎市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 九州地方 |
都道府県 | 長崎県 |
郡 | 西彼杵郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 | 8,605人 (長崎県大観 大典記念 239頁、1915年) |
隣接自治体 | 長崎市、西彼杵郡福田村、西浦上村、上長崎村 |
浦上山里村役場 | |
所在地 | 長崎県西彼杵郡浦上山里村 |
座標 | 北緯32度45分47秒 東経129度51分46秒 / 北緯32.76319度 東経129.86275度座標: 北緯32度45分47秒 東経129度51分46秒 / 北緯32.76319度 東経129.86275度 |
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浦上山里村(うらかみやまざとむら)は、長崎県西彼杵郡にあった村。1920年(大正9年)に上長崎村とともに長崎市に編入された。
現在の長崎市中央地区の一部、及び西浦上地区の一部にあたる。
地理[編集]
西彼杵半島と野母半島(長崎半島)の基部、浦上川の下流域に位置する[1]。
- 山:金比羅山(琴平山)
- 河川:浦上川
沿革[編集]
江戸時代は幕府領の山里掛[2]と淵掛[3]、大村藩領の家野・木場(古場)・滑石・北・西の各村[4]があり、これらを合わせて浦上村と称した[5]。後に浦上山里村となる地域は上記のうち「山里掛」にあたる。
浦上村は明治初期から中期にかけて幾度かの村域変遷を経て、1882年(明治15年)に浦上村より分割された2村のうちの1村として浦上山里村が成立した。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、西彼杵郡浦上山里村が単独村制にて発足。
- 1897年(明治30年)7月22日 - 九州鉄道長崎線(のち日本国有鉄道長崎本線)が開業し、当村域に長崎駅(のち浦上駅に改称)が設置される。
- 1898年(明治31年)10月1日 - 以下の村域変更が行われる[6]。
- 1920年(大正9年)10月1日 - 上長崎村とともに長崎市に編入し、浦上山里村は自治体として消滅。
地名[編集]
郷を行政区域とする。浦上山里村は1889年の町村制施行時に単独で自治体として発足したため、大字は無し。
- 家野郷(いえの)[9]
- 里郷 - 1898年、一部を長崎市に編入[6]。
- 中野郷
- 馬込郷 - 1898年、一部を長崎市に編入[6]。
- 本原郷(もとはら)[10]
- 寺野郷 - 1898年、淵村より編入[6][11]。
交通[編集]
鉄道[編集]
- (西浦上村) - 浦上駅 - (長崎市)
名所・旧跡[編集]
参考文献[編集]
- 角川日本地名大辞典 42 長崎県
- 長崎縣告示第七百十一號 西彼杵郡上長崎村浦上山里村区域編入 長崎県公報 大正9年9月29日付号外
- 市域の変遷(長崎市例規集)
脚注[編集]
- ^ ※位置参考:市町村変遷パラパラ地図 完全版 長崎県 1919年10月1日
- ^ 浦上村山里ともいう。
- ^ 浦上村淵、浦上淵村ともいう。後の淵村大字浦上淵の区域にあたる。
- ^ 大村藩領の5村は後の西浦上村の区域にあたる。
- ^ 角川日本地名大辞典 42 長崎県「浦上村」
- ^ a b c d 長崎縣告示第百二十九號『市村廃置分合の件 [1]・[2]』長崎県公報 明治31年7月22日付
- ^ 戸町村の残部は小ヶ倉村に編入し、自治体として消滅した。
- ^ 淵村の残部は小榊村として分立し、自治体として消滅した。
- ^ 西浦上村にも同表記の郷が存在するが、読みは異なる。
- ^ 江戸時代は「ほんばる」とも読まれた。
- ^ 淵村時代は大字浦上淵を冠称。
- ^ 中野郷に所在。当地は長崎への原爆投下から3年後の1948年(昭和23年)に如己堂が建てられた。