浅井万金膏

浅井万金膏(あざいまんきんこう)とは、かつて愛知県一宮市浅井町で森林平製薬が製造・販売した膏薬。別名「相撲膏[1][2]

江戸時代後期から全国に普及し、最盛期には年間400万枚以上を手作業で生産[2]愛知県葉栗郡浅井町(現・一宮市浅井町)は“浅井万金膏の町”として知られていた。

歴史[編集]

「初代が釣りに出かけた折に、脚を怪我したを見つけ、手当てをしたところ、恩返しに製法を教えてもらった」という伝承がある[3][5]
  • 幕末:尾張藩お抱え力士である境川浪右エ門(5代目)が、治療の為滞在する。完治後、大関まで昇進したことから、浅井万金膏は全国に知られる。
  • 1864年元治元年):第15代尾張藩主・徳川茂徳の落馬による怪我を治療。茂徳の完治後、入りの薬研を賜る[6][注釈 2]
  • 1997年平成9年):大手医薬品メーカーが販売する湿布薬にシェアを奪われ、この年をもって製造中止[2]

特徴[編集]

  • 複数の生薬を火にかけてペースト状にした黒色の膏薬を和紙に貼り付けた物で、現在の湿布に近い[1][2]
  • 膏薬を温めてから皮膚に貼り付ける。
  • 打ち身捻挫肩こり神経痛腰痛リウマチに効能がある。薬袋などには、「いたむところによし」と謳われている[2]
  • あかぎれ用の固形タイプもあった。こちらは、熱した火箸で膏薬を削り取り、患部に食い込むように塗る[1]

その他[編集]

歴代の森林平は相撲好きであり、治療に訪れた江戸相撲の力士に対し全快するまで無料で泊め、世話を行なった[7](治療に訪れた力士の為の部屋もあった[要出典])。明治以降も相撲に関わり、廃業後に浅井町へ移住した元力士も複数いたという[7]。浅井町で相撲の準場所が行なわれた事もある[要出典]日本相撲協会も森家には特別の配慮を行なっていたという[要出典]

現在、森接骨院は内科医院に代わったが、同じ場所に存在し、明治時代と思われる古い建物である。製造・販売をしていた森林平製薬も近くに現存する。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 「1709年(宝永6年)に製造を開始した」とする情報もある[2]
  2. ^ 1811年文化8年)に、第10代尾張藩主・徳川斉朝の落馬による怪我を治療した」とする情報もある[1]

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 一宮市浅井町史編纂委員会 編『一宮市浅井町史』一宮市役所浅井支所、1967年。 NCID BN14405469 
  • 鈴木昶「日本の伝承薬㊾ 浅井万金膏 鶴の伝説もある膏薬」『漢方臨床のための月刊漢方療法』第5巻第2号、2001年5月、176-179頁、CRID 1523669555868573568