浄法寺氏

浄法寺氏(じょうほうじし)は、日本の氏族。

出自[編集]

浄法寺氏の本姓は平姓畠山氏元久2年(1205年)6月、畠山重忠とその子重保重秀等は事に座して誅されたが、三男・重慶は難を逃れて、鎌倉浄法寺にて出家したのち奥州に下り還俗して、二戸郡安比川川谷の中心部岩手県二戸市)に住み着いたのが始まりと伝える(『奥南旧指録』)[1]

歴史[編集]

戦国期に安比川流域で屈指の大豪族となり、松岡太田駒ヶ嶺大森氏などの諸氏がこの一族という。

浄法寺重安は、天正19年(1591年)9月、九戸政実の乱において九戸城攻略の先鋒として活躍し乱後には5,000石となる。また盛岡城構築のさいにも奉行並5人衆として参加した。

慶長6年(1601年岩崎一揆において岩崎陣に参加した際、重安の嫡男重好岩崎城代として前線警備の責任者であったが、南部勢が冬が迫っていたため春まで主力を撤収したあとに、密かに浄法寺に帰り春に再征したことが発覚し、その怠慢の罪を問われて廃家没収されて家系も断絶となった。


庶家[編集]

松岡氏[編集]

浄法寺松岡村(二戸市浄法寺町松岡)を領し、松岡館の郷村の在名を氏として分立した。浄法寺家没収後も南部家に従属していた。

太田氏[編集]

浄法寺太田村を領し、太田館の郷村の在名を氏として分立した。

西舘氏[編集]

浄法寺西舘に居て氏とする。

駒嶺氏[編集]

浄法寺駒嶺村に住して氏とする。

大森氏[編集]

浄法寺松岡氏分族にて、二戸郡大森村に住す。

脚注[編集]

  1. ^ 吾妻鏡』には、重慶は日光山の麓に籠居していたが、建保元年(1213年)9月19日に謀反の疑いによって下野国で討たれたとある。

参考文献[編集]

  • 南部藩 参考諸家系図 第二巻』国書刊行会、1985年2月28日。ISBN 978-4-336-01145-9 
  • 『岩手県史 第3巻 中世篇 下』岩手県、1961年10月20日。 
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 3 岩手県』角川書店、1985年3月8日。ISBN 4-04-001030-2 
  • (有)平凡社地方資料センター『日本歴史地名大系 第3巻 岩手県の地名』平凡社、1990年7月13日。ISBN 4-582-91022-X 
  • 「角川日本姓氏歴史人物大辞典」編纂委員会『角川日本姓氏歴史人物大辞典 第3巻 「岩手県姓氏歴史人物大辞典」』角川書店、1998年5月18日。ISBN 4-04-002030-8 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]