洞院実泰

 
洞院実泰
時代 鎌倉時代後期
生誕 文永6年(1269年
死没 嘉暦2年8月15日1327年9月1日
改名 実泰→寂元(法名)
別名 洞院左大臣、後山本左府
官位 従一位左大臣
主君 後宇多天皇伏見天皇後伏見天皇後二条天皇花園天皇後醍醐天皇
氏族 洞院家
父母 父:洞院公守、母:平親継の娘
兄弟 実泰正親町実明、賢助、桓守、良守、成助、公厳、覚深、成澄、済助、三条実重室、女子
藤原季子小倉公雄の娘)
高倉康子(高倉永康の娘)
藤原兼頼[1]の娘
公賢、慈厳、公敏、守子、公泰実守
テンプレートを表示

洞院 実泰(とういん さねやす)は、鎌倉時代後期の公卿太政大臣洞院公守の長男。官位従一位左大臣洞院左大臣または後山本左府と号す。

経歴[編集]

以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

『徒然草』第83段の逸話[編集]

徒然草』第83段に実泰は登場する。太政大臣になれるのに敢えて左大臣止まりを選んだという西園寺公衡に関心して、自身も太政大臣への昇進を望まなかった、というのである。何事も上り詰めるのは良くない、と2人の左大臣を例に兼好は関心しているのである。しかし、この2人の左大臣が太政大臣への昇進を自ら望まなかったというのは彼らの本心であったであろうか。本郷和人の言うように、西園寺家がどちらかというと持明院統派であり、公衡はしばしば大覚寺統と衝突したために太政大臣に昇進できなかったとすれば少々事情は異なってくるのである。後宇多天皇とは従兄弟同士、後二条天皇の母西華門院基子ともいとことなる実泰は大覚寺統派という見方もあるようだが、一方で京極派歌人としての側面も見られ、『玉葉和歌集』には「左大将実泰」として和歌が入首している。

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 園太暦』巻1所収「洞院系図」は、名を為頼または兼親に作る。いずれが正しいのかは不明。
  2. ^ 従三位内蔵頭

参考文献[編集]

  • 黒板勝美・国史大系編修会 編『公卿補任』全5巻・別巻1、吉川弘文館新訂増補国史大系〉。 ※弘安7年(1284年)に実泰が非参議従三位となった時以降の記事。
  • 黒板勝美・国史大系編修会 編『尊卑分脈』全4巻、吉川弘文館〈新訂増補国史大系〉。 ※「洞院実泰」および「洞院公守」の項。
  • 西尾実・安良岡康作 校注『新訂 徒然草』岩波書店〈岩波文庫
  • 次田香澄 校訂『玉葉和歌集』岩波書店〈岩波文庫〉
  • 本郷和人『中世朝廷訴訟の研究』東京大学出版会、1995年4月。ISBN 978-4-13-020107-0
  • 本郷和人「西園寺氏再考」『日本歴史』第634号、吉川弘文館、2001年3月。CRID 1520853833082867712
  • 本郷和人「外戚としての西園寺氏」『ぐんしょ』第51号、続群書類従完成会。
  • 岡野友彦『中世久我家と久我家領荘園』続群書類従完成会、2002年。
先代
洞院公守
洞院家
3代
次代
洞院公賢