池坊

池坊専好の立花、六角堂、京都市中京区
いけ花発祥の地モニュメント、背景の文書は池防専応口伝の冒頭、六角堂、京都市中京区
池坊専好の立花、六角堂、京都市中京区
聖徳太子沐浴の古跡、池坊の名の由来、六角堂、京都市中京区

池坊(いけのぼう)は、日本の華道家元いけばなの根源。“流”は付かない。最古かつ最大の会員数を誇る。紫雲山頂法寺(京都市中京区、通称六角堂)の住職が家元を兼ねる。池坊の名称は、聖徳太子沐浴した池に由来している。

沿革[編集]

池坊のは、頂法寺(六角堂)の執行(しぎょう)として六角堂の本尊如意輪観音に花を供えることとなっていた。池坊といけばなの関連についての文献上の初見は寛正3年(1462年)である。東福寺の僧雲泉太極の日記『碧山日録』の同年2月25日条に、池坊専慶が草花数十枝を金瓶に挿し、京都の好事家の評判を呼んだとある。天文11年(1542年)には、専応が花伝書「池坊専応口伝」を著して立花の理論と技術を体系化した。専応の後、専栄、専好(初代)専好(二代)によって立花が大成された。江戸時代中期には、立花よりも簡略な生花(しょうか)が成立し、門弟の大幅な増加につながった。現在は、自由花(じゆうか)を加え三つの様式がある。

様式[編集]

(池坊専慶著『花王襲宿伝書』1486年~1499年)
  • 立花(りっか)
立花英語版(重要文化財『池坊専好立花図』1628年~1635年)
「立花図并砂物」1673年
「大住院立花砂物図」17世紀
  • 立花正風体(りっかしょうふうたい)⇒伝統的な様式。
  • 立花新風体(りっかしんぷうたい)⇒池坊専永が発表。
  • 生花(しょうか)
生花英語版(池坊専定著。四条派の画家、松村景文横山清暉画『挿花百規』1820年)
  • 生花正風体(しょうかしょうふうたい)⇒伝統的な様式。
  • 生花新風体(しょうかしんぷうたい)⇒池坊専永が発表。
  • 自由花(じゆうか)
かつては応用花、投入(なげいれ)、盛花(もりばな)とも称されていた。

江戸時代以降の歴代家元[編集]

  • 31世 池坊専好(初代)
  • 32世 池坊専好(二代)
  • 33世 池坊専存
  • 34世 池坊専養
  • 35世 池坊専好(三代)
  • 36世 池坊専純
  • 37世 池坊専意
  • 38世 池坊専純〔再任〕
  • 39世 池坊専弘
  • 40世 池坊専定
  • 41世 池坊専明
  • 42世 池坊専正
  • 43世 池坊専啓(1869-1944) - 油小路隆董の次男[1]、池坊専正の養子(旧名・油小路隆定)[2]
  • 44世 池坊専威(1900-1945) - 油小路隆元の子、池坊専啓の甥で養子(旧名・油小路隆久)[3]
  • 45世 池坊専永(現家元)
  • 46世 池坊専好(池坊初の女性の家元)

池坊 花逍遥(しょうよう)100選プロジェクト[編集]

  • 花き産業と花きの文化の振興を目的とした「花きの振興に関する法律」(平成26年法律第102号)が成立し、平成26年12月1日より施行された[4]ことより池坊華道会は、全国の花風景を募集し、応募のあった1200ヶ所より「華道の精神を映している」「未来にのこしたい」の双方の条件を満足する100ヶ所を池坊 花逍遥100選として認定した[5]。今後、花風景を有する自治体などに「認定書」を発行し、池坊のいけばな展で紹介し、地域ブランドづくりを支援する。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『大衆人事録 近畿篇』(帝国秘密探偵社、1940年)p.8
  2. ^ 『新撰大人名辞典』平凡社, 1937年
  3. ^ 伯爵油小路隆成『現代華族譜要』 維新史料編纂会編、日本史籍協会、1929
  4. ^ 花きの振興に関する法律が成立しました”. 農林水産省. 2015年6月19日閲覧。
  5. ^ 京都「嵯峨野の竹林と紅葉」など池坊花逍遥100選認定”. 産経ニュース産経新聞社. 2015年6月19日閲覧。

外部リンク[編集]